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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

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今日は、一人だ

刻の栞(ときのしおり)を抜けた。

二度目だった。


前にここを通ったときは、ヴァレリウスが隣にいた。

春のアウロラが綺麗だからと、行ってすぐ帰るだけの不思議な小旅行をした日の事だ。


薄紅の花が咲く街路が、馬車の窓の向こうを流れていく。

あの日も、同じ景色だった。


焼き菓子の匂いがした気がした。

ヴァレリウスが買ってくれたものだ。


(……今日は、一人だ)


馬車に乗った。あらかじめ国が手配していたものだ。表向きの聖堂まで約一キロ。その間に、今日の演算の最終確認を一通り済ませた。


第一の聖域『アウロラ』の改修——今日が、始まりの日だ。


数百年、誰も手をつけられなかった「未完の旋律」を、ついに書き直す。聖域の改修。アウロラが、その最初の実証になる。ここで成れば、ソリス、ボレアス、旧都、そして中央へ。順番は、もう頭の中に組み上がっている。


王と、公爵と、宰相は、計画を知っている。けれど——ヴァレリウスには、まだ話していない。


(……計算が、完了してから話す)


そう決めていた。彼が知れば、きっと止める。あるいは、自分が代わると言い出す。どちらも、困る。これは私の作業で、私の領分だ。


それに——と、そこまで演算して、エリシアは続きを畳んだ。彼に話したくない理由が、もう一つだけある気がした。今日のことを知ったら、あの碧の目が、きっと曇る。その顔を——たぶん、見たくない。それがどういう感情なのかは、うまく言葉にならなかったので、保留にした。


聖堂を通り過ぎた後、森が始まった。


春の花の香りが消えた。木々が密集し、日光を遮った。馬車の車輪の音が、石畳の上より遠くなった——葉の落ちた地面が音を吸うのではなく、空気そのものが変わった、という感触だった。方向感覚がわずかにずれる。演算した。結界だ。立入禁止の広大な森を馬車でおよそ十五分進んだ。


その最奥に——本当の聖域が、あった。


    *


森が途切れた。


エリシアは足を止めた。


演算が、一瞬だけ空白になる。


そこにあったのは——巨大な立方体だった。尖塔も、装飾もない。


中央の聖域の内部と同じ石だろうか。どこか光を吸い込むような黒い石。それを積み上げた六つの面。その全てに、隙間なく術式の溝が刻まれている。ただ幾何学だけで構成された建築物。


だが、それは異様なまでに美しかった。


古い。

中央大聖堂よりも、ずっと古い。


石の継ぎ目は深く、表面の彫刻は数百年分磨耗している。使い込まれたという表現が、最も近いかもしれない。数百年分の調律の重みが、石の色に滲み出ていた。


そして——その立方体は、花に包まれていた。


アステリアの花。建国の女神の象徴花が、つるを伸ばして六面を覆い尽くしている。神殿の壁を彩るそれと、同じ花のはずだった。けれど。


(……色が、灯ってる)


神殿の花も、この聖域の花も、白を主調にしている。アウロラの地が、もともと白の聖域だからだ。だが——この花は、三色が完全に交わる核心点だけが、アメジストに灯っていた。自分の瞳と、同じ色。花の内側で放射状に広がる副花冠(ふくかかん)の細い光糸が、微細な魔力線を放ち、石に刻まれた術式の溝と繋がって、明滅している。


ただ——その明滅は、聖域の奥から響くかすかな音と、共鳴していた。


耳で聞くというより、感覚器の底で拾う細い音。クリスタルが鳴るような、聖域が静かに稼働しているときの音だ。花は、その音と呼吸を合わせるように明滅している。本来なら、一定であるはずの和音。


けれど、今は——音も、光も、ところどころで詰まり、飛び、遅れていた。和音が、わずかに濁っている。まるで、痛みをこらえて息をしているように。


(花の明滅は、聖域の鼓動そのものだ。……その鼓動が、乱れている)


背筋を、ぞくりと何かが撫でた。神殿の花で、こんな濁りは聴いたことがない。この花は、聖域そのものの不調を音と光で鳴らしている。聖域が、痛がっている。


立方体の内部は、思っていたより広かった。実際の外観より数倍は大きく感じられる。空間に作用する魔術式が織り込まれているのだろう。


黒石の回廊がまっすぐ奥へ伸びている。壁も床も、外壁と同じ術式刻印で埋め尽くされていた。


その最奥にある調律室は、ひとつの部屋だった。


四方の壁の間隔は、五メートルに満たない。なのに天井は高く、見上げると首が反るほどだった。窓はない。森の音も、春の気配も、ここまでは届かない。光源は、壁の術式溝から滲み出す、淡い三色の燐光(りんこう)だけだ。


部屋の中央に、術式台があった。腰の高さほどの、円い石の台。そしてそれを囲むように、床一面に魔法陣が刻まれている——幾重にも展開する、曼荼羅(まんだら)。三弁の光紋が、より小さな三弁紋を生み、それがまた次を生んで、台を中心に同心円状に広がっていた。中央へ近づくほど密に、外周へ向かうほど緩やかに。


美しい、と思った。けれど、今は見惚れている場合ではない。


エリシアは到着してすぐ、その空間の共鳴を読み取った。


不均一だ。生光(せいこう)刻光(こくこう)の間に、いつもより広いズレがある。造光(ぞうこう)がそれを補正しようとして、かえって波形を乱している。これが「痛みの補填」として表れていた、あの歪みだ——構造の欠陥を何百年も人体で補い続けてきた、その原因が、石の中に刻まれている。


——これと、同じだ。


同じ性質の歪みを、けれど桁違いの規模で抱えている場所が、ひとつだけある。その名前が演算の縁をよぎって——すっと、消えた。


(読める)


(全部、読める)


設計図は六週間前から頭の中にある。この日のために更新し続けた。


「——準備ができたら始めなさい」


公爵が、後方から静かに言った。公的な場での声だ。


エリシアは頷いた。


部屋の入口近くに宰相が立っていた。穏やかな目をしている。今日はここへ「視察」として来た、というのが公式の説明だ。


ヴァレリウスはいない。


(……今日は、別の公務が重なったと聞いている)


それだけだ。


開始前の確認を、頭の中でもう一度だけ流した。手順、経路、退避条件——全て揃っている。揃っているのに、何かが一つ足りない気がして、リストをもう一往復した。不足は、見つからなかった。


中央の術式台に向かった。

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