今日は、一人だ
刻の栞を抜けた。
二度目だった。
前にここを通ったときは、ヴァレリウスが隣にいた。
春のアウロラが綺麗だからと、行ってすぐ帰るだけの不思議な小旅行をした日の事だ。
薄紅の花が咲く街路が、馬車の窓の向こうを流れていく。
あの日も、同じ景色だった。
焼き菓子の匂いがした気がした。
ヴァレリウスが買ってくれたものだ。
(……今日は、一人だ)
馬車に乗った。あらかじめ国が手配していたものだ。表向きの聖堂まで約一キロ。その間に、今日の演算の最終確認を一通り済ませた。
第一の聖域『アウロラ』の改修——今日が、始まりの日だ。
数百年、誰も手をつけられなかった「未完の旋律」を、ついに書き直す。聖域の改修。アウロラが、その最初の実証になる。ここで成れば、ソリス、ボレアス、旧都、そして中央へ。順番は、もう頭の中に組み上がっている。
王と、公爵と、宰相は、計画を知っている。けれど——ヴァレリウスには、まだ話していない。
(……計算が、完了してから話す)
そう決めていた。彼が知れば、きっと止める。あるいは、自分が代わると言い出す。どちらも、困る。これは私の作業で、私の領分だ。
それに——と、そこまで演算して、エリシアは続きを畳んだ。彼に話したくない理由が、もう一つだけある気がした。今日のことを知ったら、あの碧の目が、きっと曇る。その顔を——たぶん、見たくない。それがどういう感情なのかは、うまく言葉にならなかったので、保留にした。
聖堂を通り過ぎた後、森が始まった。
春の花の香りが消えた。木々が密集し、日光を遮った。馬車の車輪の音が、石畳の上より遠くなった——葉の落ちた地面が音を吸うのではなく、空気そのものが変わった、という感触だった。方向感覚がわずかにずれる。演算した。結界だ。立入禁止の広大な森を馬車でおよそ十五分進んだ。
その最奥に——本当の聖域が、あった。
*
森が途切れた。
エリシアは足を止めた。
演算が、一瞬だけ空白になる。
そこにあったのは——巨大な立方体だった。尖塔も、装飾もない。
中央の聖域の内部と同じ石だろうか。どこか光を吸い込むような黒い石。それを積み上げた六つの面。その全てに、隙間なく術式の溝が刻まれている。ただ幾何学だけで構成された建築物。
だが、それは異様なまでに美しかった。
古い。
中央大聖堂よりも、ずっと古い。
石の継ぎ目は深く、表面の彫刻は数百年分磨耗している。使い込まれたという表現が、最も近いかもしれない。数百年分の調律の重みが、石の色に滲み出ていた。
そして——その立方体は、花に包まれていた。
アステリアの花。建国の女神の象徴花が、つるを伸ばして六面を覆い尽くしている。神殿の壁を彩るそれと、同じ花のはずだった。けれど。
(……色が、灯ってる)
神殿の花も、この聖域の花も、白を主調にしている。アウロラの地が、もともと白の聖域だからだ。だが——この花は、三色が完全に交わる核心点だけが、アメジストに灯っていた。自分の瞳と、同じ色。花の内側で放射状に広がる副花冠の細い光糸が、微細な魔力線を放ち、石に刻まれた術式の溝と繋がって、明滅している。
ただ——その明滅は、聖域の奥から響くかすかな音と、共鳴していた。
耳で聞くというより、感覚器の底で拾う細い音。クリスタルが鳴るような、聖域が静かに稼働しているときの音だ。花は、その音と呼吸を合わせるように明滅している。本来なら、一定であるはずの和音。
けれど、今は——音も、光も、ところどころで詰まり、飛び、遅れていた。和音が、わずかに濁っている。まるで、痛みをこらえて息をしているように。
(花の明滅は、聖域の鼓動そのものだ。……その鼓動が、乱れている)
背筋を、ぞくりと何かが撫でた。神殿の花で、こんな濁りは聴いたことがない。この花は、聖域そのものの不調を音と光で鳴らしている。聖域が、痛がっている。
立方体の内部は、思っていたより広かった。実際の外観より数倍は大きく感じられる。空間に作用する魔術式が織り込まれているのだろう。
黒石の回廊がまっすぐ奥へ伸びている。壁も床も、外壁と同じ術式刻印で埋め尽くされていた。
その最奥にある調律室は、ひとつの部屋だった。
四方の壁の間隔は、五メートルに満たない。なのに天井は高く、見上げると首が反るほどだった。窓はない。森の音も、春の気配も、ここまでは届かない。光源は、壁の術式溝から滲み出す、淡い三色の燐光だけだ。
部屋の中央に、術式台があった。腰の高さほどの、円い石の台。そしてそれを囲むように、床一面に魔法陣が刻まれている——幾重にも展開する、曼荼羅。三弁の光紋が、より小さな三弁紋を生み、それがまた次を生んで、台を中心に同心円状に広がっていた。中央へ近づくほど密に、外周へ向かうほど緩やかに。
美しい、と思った。けれど、今は見惚れている場合ではない。
エリシアは到着してすぐ、その空間の共鳴を読み取った。
不均一だ。生光と刻光の間に、いつもより広いズレがある。造光がそれを補正しようとして、かえって波形を乱している。これが「痛みの補填」として表れていた、あの歪みだ——構造の欠陥を何百年も人体で補い続けてきた、その原因が、石の中に刻まれている。
——これと、同じだ。
同じ性質の歪みを、けれど桁違いの規模で抱えている場所が、ひとつだけある。その名前が演算の縁をよぎって——すっと、消えた。
(読める)
(全部、読める)
設計図は六週間前から頭の中にある。この日のために更新し続けた。
「——準備ができたら始めなさい」
公爵が、後方から静かに言った。公的な場での声だ。
エリシアは頷いた。
部屋の入口近くに宰相が立っていた。穏やかな目をしている。今日はここへ「視察」として来た、というのが公式の説明だ。
ヴァレリウスはいない。
(……今日は、別の公務が重なったと聞いている)
それだけだ。
開始前の確認を、頭の中でもう一度だけ流した。手順、経路、退避条件——全て揃っている。揃っているのに、何かが一つ足りない気がして、リストをもう一往復した。不足は、見つからなかった。
中央の術式台に向かった。




