今夜は、考えなかった
「エリシア令嬢の魔核について——王宮医師団による、正式な記録が必要かと存じます。伯爵家として、ご対応いただけますか」
宰相だった。
礼儀正しく、穏やかで——なのに、逃げ場のない一手だと、エリシアにも、それだけは分かった。
そこから先は、処理が追いつかなかった。
宰相は穏やかだった。
ヴァレリウスも、穏やかだった。
どちらも声を荒げない。
なのに、室内の空気だけが変質している。
見えない何かが部屋に満ちていて、エリシアの感覚器がそれを「演算外の事象」として弾き続ける。
ヴァレリウスは微笑んでいた。
あの穏やかな微笑が、今も口元にある。
ただ——目だけが、笑っていない。
エリシアはその事実を観察したが、分類はできなかった。
何か手伝うべきだろうか、と一瞬思い、割って入る式が組めないことにすぐ気づいた。
こういう空気の解法だけは、どの写本にも載っていない。
後で考えよう、と処理棚へ積む。
そのとき。
ヴァレリウスの右手の指先で、光が結晶化した。
ほんの一瞬。
氷とも硝子とも違う、光を閉じ込めたような結晶。
点灯のように現れて、息をする間に消えた。
(……結晶?)
首を傾げる。
だが口に出す前に、宰相が静かに言った。
「本日はここまでにしましょう」
空気が、緩んだ。
*
公邸を出た廊下で、ヴァレリウスが止まった。
「……ヴァレリウス?」
大きな体が、扉枠へわずかに寄りかかった。
ほんの一瞬。
けれど確かに、体重を預けた。
「何でもないよ」
「顔色が」
「大丈夫だよ」
大丈夫ではなかった。
エリシアには明確に見えた。
皮膚の下の血色が薄い。
呼吸もわずかに浅い。
明らかに状態が悪い。
(支えないと)
考えるより先に、一歩踏み出していた。
彼の体が傾いた瞬間——顔が、近くなった。
近い。左耳が——
熱い。
頬に触れた。
彼の耳元だった。
正確には——耳飾り。
火傷しそうなほどの熱が、頬の皮膚へ伝わってくる。
こんなに近くで、彼の左耳を見たことはなかった。
しずく型の、赤い石が一粒。
けれど、本来の宝石の赤ではない。
光を通さない。
透けるはずの結晶なのに、芯の奥で何かが沈殿しているように暗い。
まるで、抱えきれない熱を、その内側に閉じ込めているように。
(……宝石ではない。これは、結晶だ)
そして、熱い。
石そのものが、燃えている。
その瞬間、鼻の奥を、あの苦みが走った。
蜜豆のときの。
宰相の菓子のときの。
(……同じ)
エリシアは手を伸ばした。
指先が、その耳飾りへ向かう。
「今は触れないでくれるかな」
手首を掴まれた。
声は静かだった。
荒げていなかった。
ただ——速かった。
今の彼の状態では、ありえないほど。
確実に、エリシアの指先を彼の耳から遠ざけた。
「……熱があります。ピアスが」
「気にしなくていいよ」
「でも」
「心配するほどのことではないから、大丈夫」
彼は身を起こして、歩き始めた。
完璧な姿勢で。
廊下の灯りの中を、何事もなかったように。
エリシアは掴まれた手首を、もう一度見た。
まだ感触が残っている。
痛みではない。
速さだけが、残っている。
馬車に乗り込んだあとも、ヴァレリウスは窓の外を見ていた。
口火の候補を三通り演算して、三通りとも破棄した。
どれも、あの横顔には軽すぎる気がした。
聞けなかった。
帰り道、頭の中で何かが繋がりかけて、止まった。
(苦み。熱。そして、あの速さ)
(味覚から影響が出るのは、魔核肥大症、緩慢肥大型の初期症状で)
(もし、あの苦みが私に起きているとしたら——)
(なら、ヴァレリウスは)
思考がそこで止まった。
何かを結論しそうになって、本能的に演算を打ち切った。
「エリシア」
窓の外を見たまま、ヴァレリウスが低く言った。
「今夜は、何も考えずにゆっくり休んでほしい」
なぜそう言ったのか、わからなかった。
でも——言われた通りにした。
今夜は、考えなかった。




