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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

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22/31

今夜は、考えなかった

「エリシア令嬢の魔核について——王宮医師団による、正式な記録が必要かと存じます。伯爵家として、ご対応いただけますか」


宰相だった。


礼儀正しく、穏やかで——なのに、逃げ場のない一手だと、エリシアにも、それだけは分かった。


そこから先は、処理が追いつかなかった。


宰相は穏やかだった。

ヴァレリウスも、穏やかだった。

どちらも声を荒げない。

なのに、室内の空気だけが変質している。

見えない何かが部屋に満ちていて、エリシアの感覚器がそれを「演算外の事象」として弾き続ける。


ヴァレリウスは微笑んでいた。

あの穏やかな微笑が、今も口元にある。

ただ——目だけが、笑っていない。


エリシアはその事実を観察したが、分類はできなかった。


何か手伝うべきだろうか、と一瞬思い、割って入る式が組めないことにすぐ気づいた。

こういう空気の解法だけは、どの写本にも載っていない。

後で考えよう、と処理棚へ積む。


そのとき。


ヴァレリウスの右手の指先で、光が結晶化した。


ほんの一瞬。

氷とも硝子とも違う、光を閉じ込めたような結晶。

点灯のように現れて、息をする間に消えた。


(……結晶?)


首を傾げる。


だが口に出す前に、宰相が静かに言った。


「本日はここまでにしましょう」


空気が、緩んだ。


    *


公邸を出た廊下で、ヴァレリウスが止まった。


「……ヴァレリウス?」


大きな体が、扉枠へわずかに寄りかかった。


ほんの一瞬。

けれど確かに、体重を預けた。


「何でもないよ」


「顔色が」


「大丈夫だよ」


大丈夫ではなかった。


エリシアには明確に見えた。


皮膚の下の血色が薄い。

呼吸もわずかに浅い。

明らかに状態が悪い。


(支えないと)


考えるより先に、一歩踏み出していた。


彼の体が傾いた瞬間——顔が、近くなった。


近い。左耳が——


熱い。


頬に触れた。

彼の耳元だった。

正確には——耳飾り。


火傷しそうなほどの熱が、頬の皮膚へ伝わってくる。


こんなに近くで、彼の左耳を見たことはなかった。


しずく型の、赤い石が一粒。

けれど、本来の宝石の赤ではない。

光を通さない。


透けるはずの結晶なのに、芯の奥で何かが沈殿しているように暗い。

まるで、抱えきれない熱を、その内側に閉じ込めているように。


(……宝石ではない。これは、結晶だ)


そして、熱い。

石そのものが、燃えている。


その瞬間、鼻の奥を、あの苦みが走った。


蜜豆のときの。

宰相の菓子のときの。


(……同じ)


エリシアは手を伸ばした。


指先が、その耳飾りへ向かう。


「今は触れないでくれるかな」


手首を掴まれた。


声は静かだった。

荒げていなかった。


ただ——速かった。


今の彼の状態では、ありえないほど。


確実に、エリシアの指先を彼の耳から遠ざけた。


「……熱があります。ピアスが」


「気にしなくていいよ」


「でも」


「心配するほどのことではないから、大丈夫」


彼は身を起こして、歩き始めた。


完璧な姿勢で。


廊下の灯りの中を、何事もなかったように。


エリシアは掴まれた手首を、もう一度見た。


まだ感触が残っている。

痛みではない。

速さだけが、残っている。


馬車に乗り込んだあとも、ヴァレリウスは窓の外を見ていた。


口火の候補を三通り演算して、三通りとも破棄した。


どれも、あの横顔には軽すぎる気がした。


聞けなかった。


帰り道、頭の中で何かが繋がりかけて、止まった。


(苦み。熱。そして、あの速さ)


(味覚から影響が出るのは、魔核肥大症、緩慢肥大型の初期症状で)


(もし、あの苦みが私に起きているとしたら——)


(なら、ヴァレリウスは)


思考がそこで止まった。


何かを結論しそうになって、本能的に演算を打ち切った。


「エリシア」


窓の外を見たまま、ヴァレリウスが低く言った。


「今夜は、何も考えずにゆっくり休んでほしい」


なぜそう言ったのか、わからなかった。


でも——言われた通りにした。


今夜は、考えなかった。

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