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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

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特に粘膜接触

宰相の公邸は、静かすぎた。


音が少ないと、脳が余った処理領域で勝手に背景データを生成し始める。

エリシアは廊下の石材の継ぎ目を無意識に数えながら、それはいけないと自分に言い聞かせた。

今日は社交の場だ。

余計な演算をしている場合ではない。


隣を歩くヴァレリウスは、ずっと黙っていた。

それはいつものことなのに、今日の沈黙はどこか温度が違う気がした。


(……気のせい、かしら)


そう結論して、エリシアは応接室の扉をくぐった。


宰相——ジークベルト卿——は窓際の椅子に座っていた。

銀灰の髪を整然と撫でつけ、静かな銀の目をこちらへ向けている。年齢は父と同じくらいのはずだ。

部屋の空気ごと俯瞰しているような視線だった。


「お越しいただきありがとうございます、エリシア伯爵令嬢。そちらはヴァレリウス公爵子息でしたか」


「ごきげんよう」とエリシアは答えた。


「お招きの件ですが、何の用向きでしょうか」


テオには「直球すぎます」と言われる入り方だが、余計なリソースを使いたくない。


隣でヴァレリウスがわずかに頭を下げた。


「本日はお時間をいただきありがとうございます、ジークベルト卿」


穏やかな声で、口元には微笑まである。

エリシアはそれを「社交の場での彼の表情」として分類していたが——その微笑の温度がどこから来ているのかは、今日もまだ、うまく計算できていない。


ただ、ひとつだけ引っかかった。

彼は入室してからまだ一度も部屋の中央へ視線を落とさず、宰相だけを見ている。


(……珍しい)


そう思ったが、理由までは分からなかった。


宰相は、特に気分を害した様子もなく微笑んだ。


「まあ、おかけください。先に茶でも」


勧められた長椅子に腰を下ろす。

座面が硬い。沈み込みが浅く、反発が均一だ。


(縦十二、横十二——飾りボタンは百四十四個。完全な平方数)


素晴らしい。

中材はおそらく馬のホースヘア。長時間座っても疲労が偏らない設計だ。


視線をわずかに動かす。

暖炉上のからくり時計で噛み合う真鍮歯車は二十七枚、窓のステンドグラスは八面。

床へ落ちる光の角度から逆算すると、この部屋には室温安定化の術式が組み込まれている。

寒くも暑くもない。

客人が、不快にならないように。


効率だけを考えるなら、こんな調整は不要だ。

もっと簡素でいい。


なのにこの空間は「人間が長く座ること」を前提に作られている。

宰相閣下は冷酷な軍師だと聞いていた。

けれど、この部屋は——ずいぶんと非効率で、「優しい」。


「……エリシア令嬢。私の顔に、何か?」


いつのまにか視線が合っていたらしい。


「いえ」とエリシアは答えた。


「カップの模様が、見事な十六弁の対称図形シンメトリーでしたので」


宰相が、ふっと小さく息を吐いた。呆れたのか、毒気を抜かれたのかは、分類できなかった。


侍女が茶を置いていく。

一口含むと、野草の茶だった。


テオの淹れるお茶には及ばないけれど——その温かさが、ざわついていた演算領域をわずかに静めていく。


向かいを見ると、ヴァレリウスはまだ茶に口をつけていなかった。


(冷めてしまうのに)


    *


卓には、菓子も並んでいた。

砂糖漬けの果実、白い寒天。

それから——琥珀(こはく)色をした、塩蜜豆によく似た菓子。


エリシアは自然にそれへ手を伸ばした。


一粒、口に入れる。


甘い。


けれど——舌の奥に、薄い膜のような苦みが残った。


甘さの着地点に、小さなノイズが混じる。


あの夜の蜜豆と、同じだ。


優しい部屋なのに、この菓子だけが、苦い。


(このお店のも……? それとも私の状態の問題?)


首をわずかに傾けた、その瞬間。


宰相の視線が、ほんのわずかに止まった。


それだけだった。

確認した、と後からなら呼べるほどの、短い静止。


エリシアがその事実を処理する前に、会話が始まった。


    *


「令嬢は魔核演算の研究をされていると伺っています」


宰相は静かにカップを置いた。

声は穏やかで、完全に「学術の話をしましょう」という雰囲気だった。


「はい。主に魔核の制御と演算効率の最適化を」


「素晴らしい。最近、始祖期の論文を読み返しておりましてね」


銀の目が、穏やかに細められる。


「“魔核の異常状態”で稼働を継続した術者についての記録が、断片的に残っていた。非常に興味深い」


エリシアの意識が、自然にそちらへ向いた。


「魔核肥大症ですね」


「おや、ご存知でしたか」


「体系化された論文は少ないですが、症例の断片は残っています」


「では——症状進行過程については?」


脳が、切り替わった。


(魔核肥大症の進行過程。パターンA、急速崩壊型。パターンB、緩慢肥大型。後者は感覚器への影響が先行する……)


「緩慢肥大型の場合、初期症状は味覚・嗅覚の精度低下から始まります。その後、温度感覚、色彩認識へと影響が広がる例が多い。感覚器は精密なぶん、劣化が最初に現れやすいんです」


気づかなかった。自分が今、自分自身について答えていることに。


「なるほど」


宰相は頷いた。


急かさない、遮らない。

ただ続きを待つ。


「では、そのような魔核を——外部から安定化する方法については?」


「理論上は、情報転写が最適です」


エリシアは即答した。


「異常を来した魔核の波長情報を、外部魔核情報で補助する必要があります。ですが、生光(せいこう)領域の情報は距離減衰が大きいので——近接接触が要る」


「近接、ですか」


「はい。」


言いながら、指先でカップを回した。


「生光領域の情報は距離減衰が大きいので、最も効率が良いのは接触です」


「特に粘膜接触」


「呼気の距離でも可能ですが、古代術式では唇による情報転写が最適解として記録されています。接触面積と情報密度の関係から見ても、合理的です」


「なるほど」


宰相が、ゆっくり微笑んだ。


「とても興味深い理論だ」


そのとき初めて、宰相の視線がエリシアからヴァレリウスへ移った。


(私が導き出した理論に間違いはない。古代の推論が示した最適解だ。だが宰相はなぜ、わざわざこの話を私にさせた——?)


引っかかりは、あった。


それでも、エリシアの思考は、勝手に答えを続けようとする。


「ほかにも、転写の精度を左右する条件としては——」


「エリシア」


ヴァレリウスが、初めて口を開いた。短く、静かな声だった。


エリシアは口を閉じた。


彼がこういう声を出すときは、何かある。


それだけは分かる。

次回より1日1回 21時更新になります。完結まで毎日更新します。宜しくお願いします。

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