特に粘膜接触
宰相の公邸は、静かすぎた。
音が少ないと、脳が余った処理領域で勝手に背景データを生成し始める。
エリシアは廊下の石材の継ぎ目を無意識に数えながら、それはいけないと自分に言い聞かせた。
今日は社交の場だ。
余計な演算をしている場合ではない。
隣を歩くヴァレリウスは、ずっと黙っていた。
それはいつものことなのに、今日の沈黙はどこか温度が違う気がした。
(……気のせい、かしら)
そう結論して、エリシアは応接室の扉をくぐった。
宰相——ジークベルト卿——は窓際の椅子に座っていた。
銀灰の髪を整然と撫でつけ、静かな銀の目をこちらへ向けている。年齢は父と同じくらいのはずだ。
部屋の空気ごと俯瞰しているような視線だった。
「お越しいただきありがとうございます、エリシア伯爵令嬢。そちらはヴァレリウス公爵子息でしたか」
「ごきげんよう」とエリシアは答えた。
「お招きの件ですが、何の用向きでしょうか」
テオには「直球すぎます」と言われる入り方だが、余計なリソースを使いたくない。
隣でヴァレリウスがわずかに頭を下げた。
「本日はお時間をいただきありがとうございます、ジークベルト卿」
穏やかな声で、口元には微笑まである。
エリシアはそれを「社交の場での彼の表情」として分類していたが——その微笑の温度がどこから来ているのかは、今日もまだ、うまく計算できていない。
ただ、ひとつだけ引っかかった。
彼は入室してからまだ一度も部屋の中央へ視線を落とさず、宰相だけを見ている。
(……珍しい)
そう思ったが、理由までは分からなかった。
宰相は、特に気分を害した様子もなく微笑んだ。
「まあ、おかけください。先に茶でも」
勧められた長椅子に腰を下ろす。
座面が硬い。沈み込みが浅く、反発が均一だ。
(縦十二、横十二——飾りボタンは百四十四個。完全な平方数)
素晴らしい。
中材はおそらく馬の毛。長時間座っても疲労が偏らない設計だ。
視線をわずかに動かす。
暖炉上のからくり時計で噛み合う真鍮歯車は二十七枚、窓のステンドグラスは八面。
床へ落ちる光の角度から逆算すると、この部屋には室温安定化の術式が組み込まれている。
寒くも暑くもない。
客人が、不快にならないように。
効率だけを考えるなら、こんな調整は不要だ。
もっと簡素でいい。
なのにこの空間は「人間が長く座ること」を前提に作られている。
宰相閣下は冷酷な軍師だと聞いていた。
けれど、この部屋は——ずいぶんと非効率で、「優しい」。
「……エリシア令嬢。私の顔に、何か?」
いつのまにか視線が合っていたらしい。
「いえ」とエリシアは答えた。
「カップの模様が、見事な十六弁の対称図形でしたので」
宰相が、ふっと小さく息を吐いた。呆れたのか、毒気を抜かれたのかは、分類できなかった。
侍女が茶を置いていく。
一口含むと、野草の茶だった。
テオの淹れるお茶には及ばないけれど——その温かさが、ざわついていた演算領域をわずかに静めていく。
向かいを見ると、ヴァレリウスはまだ茶に口をつけていなかった。
(冷めてしまうのに)
*
卓には、菓子も並んでいた。
砂糖漬けの果実、白い寒天。
それから——琥珀色をした、塩蜜豆によく似た菓子。
エリシアは自然にそれへ手を伸ばした。
一粒、口に入れる。
甘い。
けれど——舌の奥に、薄い膜のような苦みが残った。
甘さの着地点に、小さなノイズが混じる。
あの夜の蜜豆と、同じだ。
優しい部屋なのに、この菓子だけが、苦い。
(このお店のも……? それとも私の状態の問題?)
首をわずかに傾けた、その瞬間。
宰相の視線が、ほんのわずかに止まった。
それだけだった。
確認した、と後からなら呼べるほどの、短い静止。
エリシアがその事実を処理する前に、会話が始まった。
*
「令嬢は魔核演算の研究をされていると伺っています」
宰相は静かにカップを置いた。
声は穏やかで、完全に「学術の話をしましょう」という雰囲気だった。
「はい。主に魔核の制御と演算効率の最適化を」
「素晴らしい。最近、始祖期の論文を読み返しておりましてね」
銀の目が、穏やかに細められる。
「“魔核の異常状態”で稼働を継続した術者についての記録が、断片的に残っていた。非常に興味深い」
エリシアの意識が、自然にそちらへ向いた。
「魔核肥大症ですね」
「おや、ご存知でしたか」
「体系化された論文は少ないですが、症例の断片は残っています」
「では——症状進行過程については?」
脳が、切り替わった。
(魔核肥大症の進行過程。パターンA、急速崩壊型。パターンB、緩慢肥大型。後者は感覚器への影響が先行する……)
「緩慢肥大型の場合、初期症状は味覚・嗅覚の精度低下から始まります。その後、温度感覚、色彩認識へと影響が広がる例が多い。感覚器は精密なぶん、劣化が最初に現れやすいんです」
気づかなかった。自分が今、自分自身について答えていることに。
「なるほど」
宰相は頷いた。
急かさない、遮らない。
ただ続きを待つ。
「では、そのような魔核を——外部から安定化する方法については?」
「理論上は、情報転写が最適です」
エリシアは即答した。
「異常を来した魔核の波長情報を、外部魔核情報で補助する必要があります。ですが、生光領域の情報は距離減衰が大きいので——近接接触が要る」
「近接、ですか」
「はい。」
言いながら、指先でカップを回した。
「生光領域の情報は距離減衰が大きいので、最も効率が良いのは接触です」
「特に粘膜接触」
「呼気の距離でも可能ですが、古代術式では唇による情報転写が最適解として記録されています。接触面積と情報密度の関係から見ても、合理的です」
「なるほど」
宰相が、ゆっくり微笑んだ。
「とても興味深い理論だ」
そのとき初めて、宰相の視線がエリシアからヴァレリウスへ移った。
(私が導き出した理論に間違いはない。古代の推論が示した最適解だ。だが宰相はなぜ、わざわざこの話を私にさせた——?)
引っかかりは、あった。
それでも、エリシアの思考は、勝手に答えを続けようとする。
「ほかにも、転写の精度を左右する条件としては——」
「エリシア」
ヴァレリウスが、初めて口を開いた。短く、静かな声だった。
エリシアは口を閉じた。
彼がこういう声を出すときは、何かある。
それだけは分かる。
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