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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

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あ。——もう一回、通っても

世界が、畳まれた。


ほんの半歩。それだけだった。通過の一瞬、三原色の膜が皮膚をくぐっていく。気圧がふっと入れ替わり、生光(せいこう)刻光(こくこう)造光(ぞうこう)が、身体の輪郭を一度だけなぞって、すぐにほどけた。馬車なら二週間かかる距離が、たった今、半歩に圧縮された。


(——すごい)


演算が、一斉に走り出した。膜の厚み、三色の配分、距離を畳む座標変換。始祖がどうやって国土そのものを折り畳んだのか——その骨格が、通過したばかりの今なら、指先の感触として残っている。


「あ。——もう一回、通っても」


「だめだよ」ヴァレリウスが即座に言った。笑っていた。「一回、十万レンだからね」


「……そうでした」


少しだけ、残念だった。


    *


顔を上げると、光が溢れていた。


薄紅の花が、街路樹に咲き乱れている。春だった。第一の聖域『アウロラ』の大都市は、王都に次ぐ商業の中心として、人と馬車の往来が絶えない。その賑わいが、春の光の中でひとつに溶けている。白煉瓦の区画に花びらが散り、行き交う人の衣装にも、柔らかな色が混じっていた。


エリシアは、しばらく動けなかった。


(……花弁の発色が、王都の個体より濃い。土壌の魔力濃度が高いんだ。アウロラは白の聖域だから、生光の比率が——)


「エリシア」


「この街路樹、王都と同じ品種のはずなのに、発色が違います。それに、ほら、あの用水路。流量制御の術式が、王都より一世代古い型なのに、稼働効率がほとんど落ちていない。つまり始祖期の設計が——」


「うん。うん」


ヴァレリウスは、止めなかった。にこにこと頷きながら、エリシアの隣を歩く。人にぶつかりそうになると、さりげなく肩を引き寄せて、流れの外側へルートを取った。エリシアは喋るのに夢中で、それには気づかなかった。


気づいたのは——彼が、一度も退屈そうにしなかったことだけだ。


(……この人は、私の話を、最後まで聞く)


それが、少しだけ、不思議だった。


    *


花の咲く広場で、ヴァレリウスが焼き菓子を二つ買った。

片方を、エリシアに渡す。まだ温かくて、中に苺の砂糖煮が入っている。


エリシアは受け取って、まず構造を検分した。生地はおそらく七層。苺は中心からわずかに左へ偏っている。最初の一口で果実へ到達する最適な角度を三通り導出して、二番目の角度を採用した。最も効率のいい角度は、食べる姿が少し行儀悪くなる。


選んだ角度に菓子を傾け、そっとかじった。


「甘い」


奥に、あの薄い苦みが、今日もいた。蜜豆のときの、朝のお茶のときの、あのノイズ。


でも——今は、どうでもよかった。


エリシアは、この焼き菓子のことを、たぶんしばらく覚えているだろうと思った。味のことではない。なぜそう思ったのかは分からなかったけれど、この時間ごと、どこかに保存しておきたい気がした。


「そろそろ戻ろうか。長くいると、本当に帰れなくなる」


「はい」


名残惜しい、という感覚が、ほんの少しだけある。演算ではない場所から来る感覚だった。いつもなら分類しようとするそれを——今日は、そのままにしておいた。


二人で、また金色の膜をくぐって、王都に戻った。


行きと同じように、手を取られている。いつ差し出されて、いつ取ったのか——その記録だけが、どこにも残っていなかった。


    *


帰り道、ヴァレリウスが斥力で先を行った。

滑るように、しかし確かな速度で。風が一瞬だけ別の方向から来た気がした。魔力を推進に変換する技術は、使い手によって全く違う。ヴァレリウスのそれは——無駄がない。造光の圧力の置き方が、風を「切る」のではなく「割る」に近い。どこか、あのアーチの刻み術式に似ていた。余剰を出さない設計。干渉の仕方が、合理的だ。


(この人の演算も、美しい)

と、思った。

思って——保留にした。


「そこの角を曲がると近道だよ」


ヴァレリウスが振り返り、落ち着いた碧の瞳と目が合う。次の一歩から、彼の歩幅はまたエリシアに揃っていた。


    *


公爵邸に戻ったのは、昼前だった。


コンサバトリーに入ると、侍女がすでにカップを運んできていた。全面ガラス張りの室内に、正午前の柔らかな光が差し込んでいる。管理された植物が整然と鉢に並び、どれも美しく、どれも同じ間隔で、どの葉も枯れていない。


「ありがとう」


エリシアが言うと、侍女は静かに一礼した。下がり際、その口元がほんのわずかに緩んでいたけれど、理由を尋ねるより先に気配が消えた。


(……何か、いいことがあったのかな)


椅子に座り、カップを両手で包んだ。一口飲む。


——少し、苦い。


昨日より、苦い。いつもの銘柄のはずで、今淹れたばかりの温かいお茶のはずなのに、舌の奥にかすかなノイズがある。それがどこから来ているのか、まだわからなかった。体調かもしれない。あるいは——


保留のまま、エリシアは湯気の消えかけたカップを見た。


ガラスの向こうで、街の鐘が聞こえた。均等に、等距離に。白亜の大聖堂と、王城の尖塔が、今日も同じ高さで並んでいた。

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