経済的です
王都の街路は、午前中が一番騒がしい。
商業区を抜けると人の密度が上がった。荷車が道を塞ぎ、客引きの声が交差する。朝市の匂い——干し魚と香辛料と、どこかで焼けているパンの熱——が、一斉に意識の余白に流れ込んできた。
(処理が、追いつかない)
頭が少し痛くなって、足が止まりかけた——その瞬間、肩を引き寄せられた。
当然のように、何の前触れもなく。ヴァレリウスの腕がエリシアの肩を包んで、人混みの流れの外側に、自然にルートを取っていた。
「混んでいるね」
声は穏やかだった。説明でも謝罪でもなく、ただ天気の話をするように。
(……いつもの、ヴァレリウス)
エリシアは何も言わずに納得した。ただ、あれほど騒がしかった朝市の音が、彼の腕の内側では一段遠くなることに気づいて、その理由を測りかけ——やめた。今朝は、演算の余白が足りない。
路地に入って、人の流れが薄くなった。用水路の側壁を横目に通ったとき、石の継ぎ目に刻まれた文様に意識を向けると、かすかに魔力の痕跡が感じられた。浄水と流量の術式——小さく、整然として、それでいて完全に機能している。ヴァレリウスの歩幅が、こちらに合わせて少し短くなった——気がした。測ったわけではない。でも、そう感じた。
*
刻の栞は、広場の端にあった。
高さ三メートルほどの、石造りのアーチだった。
近づくと、空気が変わった。アーチの周囲だけ空気の密度が違う。魔力が濃い。聖域の余剰エネルギーが、この門に集まっている——設計通りに。始祖が意図的に組んだのだろう。余剰を無駄なく循環させるための、精巧な選択だ。
触れると、指先から静かなものが伝わってきた。古い、非常に古い魔術陣。六百年前に刻まれたものが、今でも息をしている。
(……美しい)
文様の構造を目で追った。アーチの石面を埋め尽くす無数の細線——それは混沌のように見えて、混沌ではなかった。光の花弁のような形が三方向へ連なり、その先でまた三方向へ開いて、開いた先でまた開いて——無限に連鎖している。石の内側に、光の骨格が刻まれている気がした。今は静止している。起動して金色に染まる瞬間を、エリシアは文献の記述からしか知らなかった。
「聖域の余剰エネルギーで動いているんです」と、エリシアは言った。言ってから、独り言だったかもしれないと思った。
「そうだね」とヴァレリウスが答えた。「始祖が、捨てるには惜しいと思ったんじゃないかな」
「経済的です」
「……それが感想?」
「美しい、とも思っています」
少し間があった。
「そっちを先に言ってほしかったけどね」声が、わずかに笑っていた。
*
係員が傍に立っていた。
白い制服に、宗教印章のバッジ。転移の管理は王国と神殿が共同で行っている——あの二つの尖塔の均衡の延長が、ここにも及んでいる。
「ご利用ですか」
「見学だけ。少しだけ近くで」とヴァレリウスが答えた。
区画の境界まで近づくことが許された。
アーチの向こうが、光っていた。
金色だった。
刻光の黄金が主体の、薄い光の膜が揺れている。よく見ると、その中に白と蒼がほんの少しだけ混じっていた——三原色が、金を中心に干渉しながら、静かに重なり合っている。向こう側——北方の第三の聖域『ボレアス』の街並みがかすかに透けて見えた気がした。距離の感覚を失わせるような、奇妙な奥行きだ。
(一瞬で、繋がっている)
馬車なら二週間から三週間かかる距離が今、一枚の金色の光の膜の向こう側にある。けれど刻の栞があるのは五つの聖域都市だけ——この王都と、アウロラ、ソリス、ボレアス、そして西の旧都。始祖は、国の主要な結節"だけ"を、この装置で結んだ。そこから外れた町や村へは、今も馬車で何日もかけて行くしかない。
(……繋がっているのは、点と点だけ)
そしてこの門は、夜になると閉じる。係員が下がり、金の膜も鎮まる。誰もが、いつでも使えるわけではない。
「利用料は」とエリシアは聞いた。
「一人、十万レン前後です」係員が答えた。「区間によります」
十万レン。一般市民の月収より、やや多い額だ。それでも使える人間がいるから、成立している。
(収益構造としては、健全だ)
利用者が自然に絞り込まれて、門は過負荷にならない。始祖は——経済のことも演算に入れていたのかもしれない。
「どんな顔してる?」ヴァレリウスが聞いた。
「演算しています」
「楽しそうだね」
「楽しいです」と素直に言った。「始祖の設計が、六百年後の今も合理的であるというのは、非常に面白い」
「もっと直接的に感動する人が多いけど」
「感動もしています」
「……どっちが本音?」
「両方です」
*
ヴァレリウスがふっと笑って、何か思いついたような顔をした。
「ねえ、エリシア」
「はい」
「今の時期なら、アウロラが綺麗だよ。街ごと、春の花が咲いてる」
「アウロラ……第一の聖域の?」
「うん。——行ってすぐ帰るだけになるけど。刻の栞、体験してみる?」
エリシアは、瞬きをした。
体験。つまり——この金色の膜を、自分でくぐる。さっきまで構造を演算していた、あの装置を。
「……いいんですか」
「いいよ。今日は、そのために連れてきたようなものだし」
そんな話は聞いていなかった。でもヴァレリウスは、ときどきこういう、嘘とも本当ともつかない言い方をする。分類はできなかった。ただ、不快ではなかった。
「行きます」
気づけば、即答していた。
ヴァレリウスが、また笑った。さっきより少しだけ、嬉しそうな笑い方だった——気がした。
「二人分、利用を」と彼が告げると、係員は一瞬だけ目を見開いてから、丁寧に頷いた。
(……見学だけのはずが二人分になったから、驚かせたのかもしれない)
下がっていく係員の目元が、驚きのあとで少しだけ柔らかくなっていたことについては、演算は回らなかった。
*
ヴァレリウスが、手を差し出した。
「離れないでね。一緒に通らないと、別々の場所に出ることもあるから」
本当だろうか。演算上、そんな仕様は考えにくい。たぶん、嘘だ。
でも、
ヴァレリウスは時々こういう嘘をつく。害がなくて、誰かを安心させるためだけの嘘を。
エリシアは少し考えてから、その手を取った。
——温かい。いつもの、彼の体温だ。
二人で、金色の膜をくぐった。




