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世界を救える天才令嬢は、自分の救い方だけを知らない ~七年越しの初恋を隠す完璧な婚約者は、彼女だけを取り落とさない  作者: 宵野あまね
エリシア編

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保留が、今夜は少し多い

振り返る前に、ヴァレリウスがそこにいた。


いつの間に近づいたのか分からない。

気づいたときにはもう、彼の手が自然にエリシアの腕を取っていた。


そのまま歩き出す。


けれど通り過ぎ際、男爵夫人へ首だけをわずかに向けた。


「ラウネ男爵夫人。今夜のアルスタ伯爵令嬢のお召し物は、建国の式典に由来する伝統の型——女神アステリアも愛された意匠です」


穏やかな声だった。

柔らかく、上品で、完璧に礼儀正しい。


「祈りの場を思わせるその型を選ぶ方を、ご信心の深さと結びつけて考える方は多い。どうか、お忘れなく」


それだけ言って、歩き続けた。


一切振り返らない。


    *


「……あの方、口を開けたままでしたけど」


「大丈夫だよ」


「喉が乾いているのかもしれません。給仕を」


「放っておいていいよ」


返答が妙に短かった。


エリシアは首を傾げたが、まあいいかと思った。


ヴァレリウスが「大丈夫」と言うなら、本当に大丈夫なのだろう。

そういう確信が、自分の中には最初からある。


理由を考えたことはある。

結局、「信頼できる人だから」以上の答えは出なかった。


けれど今夜は、その答えが少しだけ足りない気がした。


(……なぜかしら)


「建国の式典に由来する」という説明の意味を咀嚼(そしゃく)しながら歩いていると、夜会場の中心部に辿り着いた。


その夜、誰もエリシアに「個性的」とは言わなかった。


    *


会場中央には、小さな噴水があった。

その縁に、白い陶器の小鳥が並んでいる。


エリシアは、その一羽をじっと見た。


赤い目。丸い形。

色だけなら、ヴァレリウスの左耳のピアスに、少し似ている。


(……この素材は光透過型ではなく)


演算が始まりかける。


止めた。


夜会場で陶器の屈折率を計算してはいけない。


だが処理を途中停止したせいで、視線だけが小鳥に固定された。頭が少し傾く。


後で考えれば、それはたぶん「小鳥と見つめ合っている令嬢」に見えたのだろう。


隣で婦人たちが囁いた。


「……婚約者の座まで、あの方に」


「入場ではあんなに見せつけておいて、今はあの距離でしょう? なのに殿方は誰一人近づけないなんて……見事な牽制だわ」


「公爵子息が、場を見ているもの」


「隙がないくらいに」


「腹立たしいわ、本当に」


(……腹立たしい?)


エリシアは小鳥を見つめたまま、その単語を処理した。


意味が繋がらない。


所作はテンプレート通りだ。

距離も適切。

計算にも問題はない。


なのに感情だけが負方向へ振れている。


(……社交場特有の感情パターン・未分類)


保留した。保留が、今夜は少し多い。


会場を歩く。

噴水を半周。東翼の絵画前。そこから戻る。


通常なら、その間に数人とは会話が発生する。

だが今夜は——誰も来なかった。


男性からの接触回数、ゼロ。


明確な外れ値だ。


(……何か失礼があった?)


入口で人数を数えたこと。

小鳥を長く見つめたこと。

「個性的」への返答が遅れたこと。


どれかかもしれない。


(次回は気をつけよう)


そう結論した。


結論は、出た。出たはずなのに、胸の奥のどこかが小さく重かった。何をどう間違えたのか特定できない重さは、対策の立てようがない。だから、それも保留にした。


その少し離れた位置で、ヴァレリウスが誰かと笑顔で話している。


笑っているのに、相手の男性貴族がなぜか表情を硬くして後退した理由までは、エリシアには分からなかった。


夜会の二時間の間、エリシアは何度もヴァレリウスの位置を確認した。

意図はしていない。

感覚器の端に、ただ彼がいる。


テオドールに「姉様は無自覚に義兄様を追っています」と言われたことがある。


否定した。


だが今夜は、少しだけ違うかもしれないと思った。


人混みの中でも、彼だけはすぐ見つかる。


白金の髪。

光を受けるたび、白に近く変わる。


そして彼は、いつも届きそうで、けれど邪魔にならない距離にいた。


偶然とは思わなかった。


ただ、理由の演算だけが終わらない。


それに——彼を見つけるたび、入口で閉じ損ねたあの項目が、小さく開いた。腕の、熱。今夜の彼は顔色が良い。良すぎる気もする。距離があって、確定できない。


(……帰りの馬車で、確認しよう)


手段が決まると、胸の奥は少しだけ静かになった。

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