保留が、今夜は少し多い
振り返る前に、ヴァレリウスがそこにいた。
いつの間に近づいたのか分からない。
気づいたときにはもう、彼の手が自然にエリシアの腕を取っていた。
そのまま歩き出す。
けれど通り過ぎ際、男爵夫人へ首だけをわずかに向けた。
「ラウネ男爵夫人。今夜のアルスタ伯爵令嬢のお召し物は、建国の式典に由来する伝統の型——女神アステリアも愛された意匠です」
穏やかな声だった。
柔らかく、上品で、完璧に礼儀正しい。
「祈りの場を思わせるその型を選ぶ方を、ご信心の深さと結びつけて考える方は多い。どうか、お忘れなく」
それだけ言って、歩き続けた。
一切振り返らない。
*
「……あの方、口を開けたままでしたけど」
「大丈夫だよ」
「喉が乾いているのかもしれません。給仕を」
「放っておいていいよ」
返答が妙に短かった。
エリシアは首を傾げたが、まあいいかと思った。
ヴァレリウスが「大丈夫」と言うなら、本当に大丈夫なのだろう。
そういう確信が、自分の中には最初からある。
理由を考えたことはある。
結局、「信頼できる人だから」以上の答えは出なかった。
けれど今夜は、その答えが少しだけ足りない気がした。
(……なぜかしら)
「建国の式典に由来する」という説明の意味を咀嚼しながら歩いていると、夜会場の中心部に辿り着いた。
その夜、誰もエリシアに「個性的」とは言わなかった。
*
会場中央には、小さな噴水があった。
その縁に、白い陶器の小鳥が並んでいる。
エリシアは、その一羽をじっと見た。
赤い目。丸い形。
色だけなら、ヴァレリウスの左耳のピアスに、少し似ている。
(……この素材は光透過型ではなく)
演算が始まりかける。
止めた。
夜会場で陶器の屈折率を計算してはいけない。
だが処理を途中停止したせいで、視線だけが小鳥に固定された。頭が少し傾く。
後で考えれば、それはたぶん「小鳥と見つめ合っている令嬢」に見えたのだろう。
隣で婦人たちが囁いた。
「……婚約者の座まで、あの方に」
「入場ではあんなに見せつけておいて、今はあの距離でしょう? なのに殿方は誰一人近づけないなんて……見事な牽制だわ」
「公爵子息が、場を見ているもの」
「隙がないくらいに」
「腹立たしいわ、本当に」
(……腹立たしい?)
エリシアは小鳥を見つめたまま、その単語を処理した。
意味が繋がらない。
所作はテンプレート通りだ。
距離も適切。
計算にも問題はない。
なのに感情だけが負方向へ振れている。
(……社交場特有の感情パターン・未分類)
保留した。保留が、今夜は少し多い。
会場を歩く。
噴水を半周。東翼の絵画前。そこから戻る。
通常なら、その間に数人とは会話が発生する。
だが今夜は——誰も来なかった。
男性からの接触回数、ゼロ。
明確な外れ値だ。
(……何か失礼があった?)
入口で人数を数えたこと。
小鳥を長く見つめたこと。
「個性的」への返答が遅れたこと。
どれかかもしれない。
(次回は気をつけよう)
そう結論した。
結論は、出た。出たはずなのに、胸の奥のどこかが小さく重かった。何をどう間違えたのか特定できない重さは、対策の立てようがない。だから、それも保留にした。
その少し離れた位置で、ヴァレリウスが誰かと笑顔で話している。
笑っているのに、相手の男性貴族がなぜか表情を硬くして後退した理由までは、エリシアには分からなかった。
夜会の二時間の間、エリシアは何度もヴァレリウスの位置を確認した。
意図はしていない。
感覚器の端に、ただ彼がいる。
テオドールに「姉様は無自覚に義兄様を追っています」と言われたことがある。
否定した。
だが今夜は、少しだけ違うかもしれないと思った。
人混みの中でも、彼だけはすぐ見つかる。
白金の髪。
光を受けるたび、白に近く変わる。
そして彼は、いつも届きそうで、けれど邪魔にならない距離にいた。
偶然とは思わなかった。
ただ、理由の演算だけが終わらない。
それに——彼を見つけるたび、入口で閉じ損ねたあの項目が、小さく開いた。腕の、熱。今夜の彼は顔色が良い。良すぎる気もする。距離があって、確定できない。
(……帰りの馬車で、確認しよう)
手段が決まると、胸の奥は少しだけ静かになった。




