今夜は九十七人
——王城の、大広間。
春の宵。王家主催の夜会だった。
無数の魔力灯とシャンデリアの光が、磨き抜かれた白大理石の床に虹の帳を落としている。三原色が淡く滲む、魔力灯特有の光だ。高い天井。列をなす石柱。奥には楽団。閉じた扉の向こうから、すでに音と熱気と香の気配が溢れていた。
その扉の前に、ヴァレリウスと並んで立つ。
エリシアの装いは、今の流行とは正反対だった。
今の社交界では、強いコルセットで腰を極限まで締め、胸元を大きく開いた意匠が主流だ。けれどエリシアのドレスは、胸下で切り替え、裾へ静かに流れ落ちるエンパイア・シルエット。月光の白から、極薄い藤色へと溶けるグラデーション。幾重にも重ねられたシルクシフォンと透光性の高いオーガンジーが、歩くたびに春の霧のように揺れる。
露出は少ない。鎖骨だけを静かに覗かせ、銀糸の刺繍と小粒の真珠が星屑のように散っていた。
理由は三つある、とエリシアは把握している。
一つ。極端なコルセットは、演算負荷の高い自分には単純に向いていない。
二つ。胸元を大きく開く型は、余計な視線と会話を増やす。ヴァレリウスがそれを好まないことも、なんとなく分かる。
三つ。これは女神アステリアも愛した伝統式であり、どの時代でも、どの場でも、決して失礼にならない。
合理的な選択だ。それ以上の意味はない。
隣のヴァレリウスは、黒に近い濃紺——ミッドナイトブルーの燕尾服を纏っていた。
白金の髪が、その深い色彩に冴える。雪のように白いウェストコート。完璧に結ばれた白蝶ネクタイ。胸元のアレキサンドライトが、シャンデリアの光を受けて、彼の碧眼と同じように紫へ変わる。
(……私の瞳と、同じ色になる)
なぜ彼がこの石を好むのか、一度だけ演算したことがある。
答えらしきものは出ている。けれど分類は、まだ終わっていない。
「入れる?」
ヴァレリウスが、少しだけ身を屈めて聞いた。
いつもの声だった。穏やかで、柔らかい。
だが今夜は、ほんのわずかに低い。
「はい」
彼が腕を差し出す。エリシアはそこへ手を添えた。婚約者同伴の入場作法。テンプレート通りだ。
ただ、触れた腕が少し熱かった気がして、一瞬だけそちらを見る。
「どうかした?」
「……いえ」
気のせいかもしれない。夜会前は人も多いし、体温が上がることくらいある。
そう処理した。処理したはずのその項目が、なぜか閉じずに残った。
扉が開いた。
音が、一気に押し寄せた。
弦楽器の旋律。幾重もの会話。磁器の触れ合う音。魔力灯が吐き出す微かな熱。香水と花の香り。全部が同時に感覚器へ流れ込む。
エリシアは一瞬だけ目を閉じた。
選別処理。
演算負荷が、今夜は少し重い。
その瞬間、腕の温度が、ふっと離れた。
(……ああ)
いつものことだ。
演算処理が始まると、ヴァレリウスは自然に距離を取る。感覚器へ余計な入力を与えないためだろう——そう推定している。根拠はないが、おそらく正しい。
目を開けた。
少し後ろに、白金の気配がある。
探した覚えはない。感覚器が、勝手に報告してくる。
(……便利な機能ではある。用途は、不明だけれど)
入口の照明が強い。柱は四本。右から二本目だけ間隔が二十センチ広い。天井のシャンデリア配置は左右非対称。人流は反時計回り。
(今夜は九十七人。昨年の春季夜会より十三人少ない)
無意識に数えてから、エリシアは口を閉じた。
貴族令嬢が入口で人数を数えていてはいけない。
それくらいの常識は持っている。
ただ今夜は演算負荷が高く、「常識」の優先順位が少し後ろへ押されていた。
テオドールには、「姉様は夜会に行くたびに空間設計しています」と呆れられる。
別に悪いことではないと思う。把握した方が動きやすい。それだけのことだ。
歩幅を決める計算が走った。
重心位置。裾の軌道。人口密度。衝突率。布動係数。
演算結果として導き出された歩幅で、エリシアは会場を進む。
それだけのことだ。
そうして歩いていると、斜め前から婦人が近づいてきた。
ラウネ男爵夫人。三十歳前後。セピア色の髪を複雑に結い上げ、緑の瞳が周囲を測るように動く。流行の最前線をなぞった、完成度の高い装いだった。
強く締め上げたコルセット。深いエメラルドグリーン。大胆に開いたデコルテ。視線を腰へ落とす金刺繍。
(……視線誘導として合理的)
そう分類してから、エリシアは微笑んだ。
「エリシア様、ごきげんよう。今夜のドレス、まあ……個性的ですこと」
「ありがとうございます」
反射的に返した。
だが会話が終わらない。
男爵夫人は微笑んでいる。扇の向こうで、何かを待っている。
(何を待っているのだろう)
「個性的」
褒め言葉か、批判か。
文脈から後者の可能性が高い。しかし確定しない。
返答候補が止まる。
「個性的」
「個性的」
「個——」
「失礼」
低い声が、空気を割った。




