本当に、少しずるい人
ヴァレリウスは部屋へ入ってくると、ごく自然な動作でエリシアの机の端に置かれていた冷めかけの茶器へ触れた。
「……冷えてる」
小さく言う。
仕方がないな、とでも言うような、やわらかな響きだった。
次に彼は、部屋の隅に控えていた侍女へ視線を向けた。
「新しいものをお願いできる?」
「かしこまりました」
あまりにも自然だったので、エリシアは数秒遅れて処理した。
(交換された)
ヴァレリウスは特に何も言わない。
「ちゃんと温かいものを飲みなさい」とも、「また忘れていただろう」とも言わない。
ただ、気づいたから整えただけだ。
それが彼だった。
エリシアは少しだけ視線を落とした。
胸の奥が、また少しだけ変になる。
最近よくある、未分類の感覚だ。
「今日は顔色が少しマシだね」
「今朝より演算負荷が下がっています」
「それはよかった」
ほんの少しだけ目を細めて笑う。
安心した時に見せる顔だと、エリシアは知っている。
「ちゃんと歩けてた?」
ヴァレリウスが聞く。
廊下へ出ながらの、何気ない声だった。
「はい。今日は平らな床で転んでいません」
「うん。少なくとも、今は無事そうだ」
即答だった。
エリシアはそちらを見た。
「……見ていたのですか?」
「迎えに来た時に少しだけ。今日みたいな日は、念のためね」
穏やかな声に、エリシアが無理をしていないか案じる気遣いが滲んでいた。
並んで廊下を歩く。
ヴァレリウスは、今日もいつもの距離を保っていた。
近すぎない。
遠すぎない。
エリシアがふらつけば、すぐ届く距離。けれど、淑女としての体裁は崩さない距離。
昔からずっと、この距離だった。
エリシアは知っている。
彼はいつも、少し早く気づく。
転びそうになる前に支える。
疲れが顔へ出る前に休ませる。
困りきる前に整える。
なのに本人は、それを大したことだと思っていない。
今日も何も聞かなかった。
何があったかも。誰と会っていたかも。
聞かないまま、ただ迎えに来た。
それが少しだけ、困る。
少しだけ、安心する。
そして、少しだけ——ずるいと思う。
エリシアはポケットから蜜豆を取り出した。
一粒、口に入れる。
甘かった。
「……蜜豆、減ってない?」
隣から声がした。
エリシアは止まった。
「……数えていますか?」
「数えてはいないよ」
「なんとなくで分かる量ではないと思います」
「日々の積み重ねだよ」
さらりと言われた。
エリシアは少し黙った。
演算が、一瞬だけ止まりかける。
ヴァレリウスは、理由までは気づかない。
気づかないまま、穏やかな顔で歩いている。
ずるい。
本当に、少しずるい人だと思った。




