——絶対に、話す
部屋に、公爵とエリシアだけが残った。
数秒前まで張っていた空気が、ふっと変わる。
公爵が息を吐いた。
「いやあ、寿命が縮んだ」
さっきまでの威圧感が綺麗に消えていた。
「陛下、今日はちょっと"王"が強かったな……」
ぶつぶつ言いながら肩を回す。
エリシアは少し考えた。
(……同じ人なのに、切り替わりが速い)
「でもまあ」
公爵がエリシアを見た。
今度は、いつもの顔だった。
「本当によくやった」
優しい声だった。
「お前は昔から、いきなり世界をひっくり返す」
エリシアは少し考えた。
褒められているらしい。
「ありがとうございます」
「褒めてるぞ。ちゃんと褒めてる」
「はい。たぶんそうだろうと思いました」
「"たぶん"かあ……」
公爵が笑う。
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「ヴァレリウスには、いつ話す」
エリシアは視線を落とした。
「……計算が完了してから」
「そうか」
公爵は頷く。
それから少し悪戯っぽく笑った。
「怒られたら、私のせいにしていい」
「公爵様が?」
「うむ。『公爵様が全部許可しました』と言えば、少しは勢いが減る」
「減るのですか」
「……減る。たぶん」
少し自信がなかった。
エリシアは少しだけ可笑しくなった。
「半分くらいですか」
「お、学習したな」
公爵が楽しそうに笑った。
*
控え室に戻ると、書類がそのままになっていた。
エリシアは机に向かって、北部地区の共鳴波パターン調査報告書を書き始めた。
演算が走る。設計図は頭の中にあり、承認は下りた。あとはこの書類を終わらせる。今日は、それだけのことだ。
羽根ペンを走らせながら、一度だけ窓の外を見た。春の光が王城の白い石壁に落ちていて、静かだった。あの小部屋で交わされた会話が本当に存在したのか、分からなくなるくらいに。
(説明が不要な事柄について、説明する必要はない)
(計算が完了してから、話す)
(——絶対に、話す)
書類の最後の一行を書き終えた、その時だった。
「——終わった?」
扉の向こうから声がした。
低く、穏やかな声。
不思議と、それだけで分かる。
ヴァレリウスだった。
正確には、分かるより先に、手が羽根ペンを置いていた。識別の演算より、手の方が速い。理由は、まだ分類していない。
タイミングが良かった。報告書はちょうど、最後の確認が終わったところだった。
「はい」
返事をすると、扉が開く。
ヴァレリウスが立っていた。
午後の光が、背後から彼の輪郭を淡く縁取っている。白金の髪は柔らかく光を弾き、整った横顔は相変わらず隙がない。王都の令嬢たちが見れば、たぶん三秒で溜息をつく。
エリシアは知っている。
この人は昔から、こういう人だ。立っているだけで絵になるのに、それを自覚していない。そして、自分が誰かを安心させていることにも、半分くらい気づいていない。
ヴァレリウスはエリシアを見ると、まず机の上を見た。
書類。
インク。
筆跡。
確認欄。
それから、彼女の顔を見る。
順番が自然すぎて、エリシアは少しだけ瞬きをした。
(確認された)
体調と、仕事の進捗と、疲労。
たぶん、そのあたり。
(……どこへ行っていたか、聞かれるだろうか)
一瞬だけ、あの折り畳んだ紙の重さが手に戻ってきた。
けれどヴァレリウスは、聞かなかった。




