第8話:雨の中の待ち人(後編)
「それでさ、何で毎回傘忘れてくるわけ?」雨の中を歩きながら、夢は英子に問いかけた。
英子が傘を忘れたらしいので、夢の傘に一緒に入っている。帰りの時間までには収まるかと思われていたが、結局ますます激しくなった。できる限り肩を寄せ合って歩いているが、お互いに外側の方が濡れている。
「いや〜、なんかさ、癖になっちゃって。」今日の英子は返事の歯切れが悪いように感じる。
いつもならもう少しはっきりと返す英子に対し、夢は少しだけ心配になった。しかしそういえば前の雨の日もこんな感じだったような、と夢はふと思い出す。
「まさかと思うけど、傘持ってない?」そんなはずはないと思ってはいたが、ほんの少しの冗談のつもりで英子に尋ねる。
「う〜ん、なんていうか、忘れたら迎えに来てくれるような気がしてさ〜。」
「……誰が?」夢は終始英子の言動が気がかりだった。
「でも、最近は夢が入れてくれるからいっかなぁ〜って。」おどけた調子の英子が笑って言った。
それはいつもの芝居がかった冗談のつもりだったかも知れないが、あまり軽さが感じられない。
「ちょっと?流石にそれはどうなのよ。……まぁ、入れてはあげるけど。」夢は軽く笑いながらも、仕方がないなぁという感を醸し出しながら答えた。
雨はずっと一定の調子で降り続けているが、ゆっくりとではあるが、少しずつ強さを増しているような気もする。いつもはそれなりに賑わっている人通りが、今日はなぜかかなり少ないように見えて、夢はなんだか物悲しいように感じていた。
今は少しだけ夜になるのが早い。まだ時間帯はそう遅くはないものの、あたりはうっすらと薄暗く、ぽつぽつと街灯の明かりがつき始めるのが見てとれた。
「この辺りのさ、交差点。ちょっと事故が多いんだよね。」英子が静かな声で話し始める。
「え……?」
「特に、雨の日とかで、天気が悪いとよく事故るんだ〜。この前もさ、花束飾ってあったでしょ?頻繁にってほどじゃないけどね。途切れないぐらいの数ではあるんだよね。」英子はゆっくりと話し続けるも、夢は困惑を隠しきれずにいた。
そうなのかもしれないと夢は思う。自分は事故の話なんてほとんど知らなかったけど、見ようとしていないから目に映らないだけで、そんなのはきっとどこにでもあるのだろう、と思った。でもどうしてそれを話題にしたのか、夢にはいまいち英子の思惑が測りきれないでいたのだ。
「あのね、この前話したさ、赤い傘の女の人の話、数年前の話なんだけどね、私のお母さんのことなんだよね。」英子は躊躇いがちに打ち明ける。
「その日もこんな風に雨の降る夜で、小学生の私は傘を忘れてしまっていたの。学校で待ってても一向に雨が止まないし、それどころかどんどん強くなっていって。このままじゃいつまで経っても帰れないから、思い切って帰ることにしたんだ。」
夢はどう反応していいか分からなかった。2人はゆっくりと雨の中を歩いてきたけれど、もう少しで例の交差点に辿り着く。あの交差点には確かにいる。きっとそれが英子が会いたがっている人なのだろう、と夢は思った。
しかし夢は、この天真爛漫な友達に、自分にはそれが見えていることを打ち明けることが、どうしてもためらわれて仕方がなかった。
「交差点だ。本当にいるなら会いたいな。……まだ待っててくれてるのかな。」
英子の呟きを聞きながら、夢は電柱の影を探した。確かによく見ると、濡れそぼった枯れかけの花束と数本のペットボトル飲料が申し訳程度に供えられている。
「ねぇ英子。……本当に何も見えないの?」夢は思い切って問いかけた。
「うん、見えない。いないならそれでいいと思うの。お母さんが地縛霊になってたらそれはそれで少し悲しいし、それで誰かを怖がらせるような噂になるのは、本当はちょっと嫌なんだ。」英子は少しだけ悲しそうな笑みを浮かべた。
「夢はどうなの?」
「私は……。」
夢の前には朝見終夜と、目を見開いて英子を見つめている女の人が立っている。どうしたものかと思案しながら見つめていると、不意に朝見終夜と目があった。朝見終夜は女の人と何事かを話していた。しばらくすると女の人は英子を見て、夢を見て、そして涙を流しながら静かにうなずいた。
「英子、迎えに来たよ。」女の人はゆっくりと歩きだすと、すれ違いざまに英子の耳元でつぶやく。
「え?」英子が振り返る。
「あっちょっと!」濡れるのも構わずに雨の中へと踏み出す英子を見て、夢は思わず慌ててしまった。
英子は傘の下を躊躇いなく飛び出して、髪も服もぐしゃぐしゃになるほど濡れている。まだ車道は赤信号だが、車がいるので夢もまた気が気ではない。
「おかあさん!」急に大きな声で叫んだ英子の声に、少ないとはいえ周囲を歩いていた人々が振り返る。
女の人は振り返ることなく交差点の横断歩道を渡り切り、そうして静かに溶けて消えた。英子は雨の中に立ちすくみ、声をあげながら泣いている。きっと、母親である女の人の声が聞こえたのだろう。青信号が点滅している。
「英子!早く渡ろう?」夢は、まだ名残惜しそうにしている英子を、半ば引きずるようにして横断歩道を渡り切る。
「会えて、よかったですね。」そのいきさつをずっと見ていた朝見終夜が、ポツリと呟く。
その声を聞いた夢が、姿を追って振り返ったときには、もうすでにその姿は夜の闇の中に掻き消えた後だった。




