第7話:雨の中の待ち人(中編)
日の落ちかけた住宅街、今日は朝から強めの雨が降っている。何もかもが静かで、そのくせ小さな音が大きく響く。そんな中を1人の女が傘を持って先を急ぐ。道は雨で濡れているどころか沈んでいるようなありさまで、走るためにスニーカーを履いてきた足が、びしょ濡れになってしまうくらいの雨だった。
レインブーツの方がよかったかな、と彼女は思った。けれど急いで迎えに行くために、スニーカーを選んだのだった、と溜め息をついた。
バシャバシャと水を跳ね飛ばしながら先を急いだ。昨日から雨予報ではあったものの、朝方娘が家を出ていく時点では、そこまでひどい天気ではなかったのだ。彼女は思わず油断して、娘に傘を持たせるのを忘れてしまったことを後悔していた。
このままでは娘が帰って来られないし、無理に帰ろうとしてびしょ濡れになってしまうかもしれない。あの子ならやりかねないけど、せめて途中まででも迎えに行ってあげないと、と彼女は思った。彼女の頭の中は、すっかり娘への心配で埋め尽くされてしまっていた。
彼女は2本の傘を持っていた。どちらも赤い傘で、1本は自分が差し、もう1本は娘に渡す予定のものだ。娘は今日、おそらく傘を持って出なかった。それに気づいた彼女は、こうして強い雨の中にも関わらず、娘を迎えに行くことにしたのだった。
住宅街を走り、なんとか電車で最寄り駅につき、あとはもう娘の学校まで一直線というところまで来た。少し大きめの交差点は交通量が多く、今日のように視界の悪い時は気を付けておかないと事故が起きると彼女は知っていた。
それにも関わらず、急ぐあまりに変わりかけた信号を無理に突っ切ろうと女は走った。しかし、タイミング悪く足を滑らせて転んでしまった彼女は、青信号を突き進んでくる車がいるのに対処することができないでいた。
「危ない!」鬼気迫った男の声が聞こえ、彼女の腕が強い力で引っ張られる。
思いっきり後ろに引っ張られたせいで、体勢を整えることに失敗した彼女は、よろめきながら男性の腕の中へと倒れ込んだ。大きく水飛沫をあげて車が通り過ぎていく。まるで世界がスローモーションになったような焦りと驚きの中、水飛沫に服を濡らされながらも、何事もなく歩道に引き上げられたことに安堵する。
「ふう……。大丈夫ですか?」頭上から、自分を引っ張ってくれた男の声がする。
ほんのりと、わずかに白檀の香りがした。彼女は男を見上げ、慌てて寄りかかっていた彼の胸から離れようと身を引いた。
「あっ。」
「おっと!」再び足を滑らせそうになった彼女を、またもや男が引っ張って止めた。
「はぁ、私は大丈夫ですから、少し落ち着いてください。危ないですよ?」男はやれやれといった体で彼女を支えている。
「あ、すいません。」女性は慌てて頭を下げるも、今度はしっかりと男の腕を掴んで立った。
「おや、傘を落としてしまったようですね。取ってきますから、そこの建物の下にいてください。そう大して変わらないかもしれませんが、ここにいるよりはマシでしょう。」糸目の男はにこりと笑いながら、建物のわずかな出っ張りの下を指差した。
「あ、はい。」女は男の手際の良さに気圧されつつ、雨を凌げるように建物下に移動する。
交差点で転んだ上に傘まで放り投げてしまったせいで、女は上から下までびしょ濡れだった。しかし新たに濡れるよりはマシだったので、女は申し訳程度に服の裾を絞りながら、素直に男を待つことにした。
「戻りました。」パシャパシャと軽い音を立てながら、雨の中を軽快な足取りで男が戻ってくる。
男は2本の傘を畳み、片方の手で持っていた。それを見た女は、大きい手だなとぼんやり思った。
「すいません、寒かったですか?」男が心配そうに女の顔を覗き込む。
男はとても背が高く、手入れの行き届いたスーツ姿のスマートな出立ちで、こんな雨の中びしょ濡れにさせてしまったことが申し訳なく思えるほどのイケメンだった。
「あ、いえ。すいません、ぼーっとしてしまって。」女は慌てて否定した。
「そうですか。でも驚かれたことでしょうし、ぼーっとするのも仕方がないと思いますよ。」男は濡れてべたっと額に張り付いた前髪を、空いている方の手ですっと掻き上げた。
それまでの分け目のある髪型とは違って、図らずもオールバックのようになると、女はなぜか恥ずかしいような気持ちになって目を伏せた。
「すいません。傘まで。あっ、壊れてはいないでしょうか?」
「あぁ、いえ。うーん、一応見た感じは大丈夫そうですが、もしかしたらどこかに穴が空いていたり、骨の曲がっている箇所があるかもしれませんね。」即座に傘の心配をした女に対して、男は冷静に返答した。
「あぁ、そうですか。まぁ見た感じが大丈夫なら、大丈夫です。壊れていても、自業自得ですし。」女は少し肩を落とす。
「ふふっ、自分を責めることはありませんよ。確かに少し不注意だったとは思いますが、何か、お急ぎの理由があるのではないですか?」男は優しく女を慰めた。
男の顔は終始笑ったような表情なので、初めて会ったばかりの女には、彼の深い感情の機微までは分からない。しかし、男の声があまりにも穏やかなので、女は安心し切ったようにため息をついた。
「ええ、急いではいました。こんな雨ですし、娘が濡れて帰ってくるんじゃないかと思って。」
「気が気じゃなかったんですね。ここまでは娘さんに会っていないんでしょう?娘さんはこの道を通られるのですか?」男はあたりを見回しながら尋ねる。
「はい、いつもこの道を通って帰ってきます。ここにいれば、もしかしたらやってくるかもしれませんね。本当は、小学校まで迎えに行ってやりたいのですけど。」女は再びため息をついた。
「そうだったのですね。それでこんなひどい雨の中を走っていらしたと。」
「はい、危ないですよね。……あ、その、あなたはどちらへ?予定とかは大丈夫なんですか?」女は急に焦り出す。自分のことばかりで、男の都合を考えていなかったことに、今更思い至ったからだ。
「あぁいえ、大丈夫です。私も人を待っているので、ここで休憩するくらいの余裕はあります。……おっとそうでした、私は朝見終夜と申します。まぁ通りすがりではありますが、名も知らぬ他人よりはマシでしょう?」朝見終夜は戯けたように名前を言った。
「あ、初めまして。佐藤です。朝見さんは、この辺りにお住まいなのですか?」佐藤は少しだけ探るように問いかけた。
「そうですね、こちらには仕事で来ているのですが、もうずいぶん長くいますから。」
「あら、単身赴任とかですか?あぁ、失礼ですよね。すいません、ここにはそういう方が多いので。」佐藤は急いで訂正した。
「独身です。まぁ、長い出張のようなものですね。ですが、なかなか、慣れてきました。」朝見は笑いながら返答した。
「……佐藤さん、娘さんに会いたいですか?」
「え?」急に神妙な面持ちで問いかける朝見に対し、佐藤は少し返答に時間がかかった。
「それは、まぁ、会いたいですけど……。でも今生の別れとかでもないのに大げさですね。」佐藤はやや困惑しながらも、なぜか少し逸るような気持になっている自分に気づいた。
「そうでしょうね。佐藤さん、あなたの娘さんが帰ってきましたよ。」朝見終夜は交差点の向こうを指さした。
「え。」
佐藤が朝見の指さす方に目をやると、少しだけ弱くなった雨の中、友達と同じ傘に入って楽しそうに会話している中学生の娘の姿が見えた。




