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夜は記憶の片隅で  作者: Nova


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第2話:残業終わりの待機列(後編)

「え、はい。長谷川麻衣です。よろしくお願いします。」麻衣は急な展開に困惑しつつ、朝見終夜と名乗る人物を見上げる。

 なんとなくではあるものの、彼女は無意識に背筋を伸ばした。胸に手を当て、軽くお辞儀をした終夜の所作が、驚くほどに美しかったからだ。


「おっと、すいません。職業柄で。あまりお堅くならず、気楽にお話ししましょう。どうせ始発まで、まだ何時間もあるのですから。」終夜はほんの少し困り顔で肩をすくめたものの、また元のにこにこ顔に戻って隣に座った。

 麻衣は、隣に座った終夜から、ほんのり甘い香りがすることに気がついた。麻衣には香りの知識がないので、なんの香りかは分からなかった。ただ花のような木のような、どことなく嗅ぎ覚えのあるようなないような、不思議な香りにくらくらするような感覚を覚えた。


「珍しいですね。男性で、香水なんて。なんだか上品な香り。」麻衣は思わず呟いた。

「そうでしょうか。今は男性でもおしゃれで着ける人が多いのでは?」終夜がお茶らけたように言葉を返した。

「そうかもしれませんけど、仕事着ですよ?しかもスーツ。今どきの若者だって、スーツに香水はつけませんって。」そう言うと、麻衣はコロコロと笑った。

「水を飲まれてはいかがです?」終夜が未開封のボトルを指さす。

「あ、忘れてました。ありがとうございます。」麻衣はすっかりリラックスしたように微笑んだ。ボトルの口を開けて、半分くらいを一気に飲み干す。


 麻衣はもう何日も水を飲んでいなかったかのような乾きが、自分にあったことに気が付いた。けれどそれもすぐに、終夜が買ってくれた水によってうるおされていく。

 終夜と共に、しばらくとりとめのない話をしていた麻衣は、さっきまでぼろ雑巾のようにくたびれていた心が、少しずつ楽になっていくのを感じていた。かぐわしい香りが一層強く感じられる。


「どうです?少し落ち着きましたか?」終夜が麻衣に尋ねる。

「はい。でもなんだか、少しふわふわするみたい。」麻衣の体はふらふらと軽く揺れている。

「そうですか。ずっと張りつめていたのですから、無理もありませんよ。」終夜もいつの間にか、缶コーヒーをどこからか出して飲んでいる。


「そういえば終夜さんは、こんな時間まで何をしていたんですか?スーツだから、お仕事、だったんですか?」麻衣がためらいがちに問いかける。

「はい。仕事、と言えばそうですね。」終夜は首をかしげながら答えた。

「なんだかお互い、大変ですね。しんどくないですか?私も毎日毎日、しんどくて。もういい加減休みたいなって、思ってて。」口元は笑っているものの、麻衣は眉間にしわを寄せながら言葉を紡いだ。


「そうですね。もういい加減、と思うことがないわけではありません。幸いなことに、仕事自体は楽しいもので、辞めるというまでには至っていませんが。」終夜は缶コーヒーを一口飲んだ。

「それにですが、私の仕事は簡単に辞められるものでもないですから。」終夜はおもむろに片足を組んだ。

 終夜が座るには、ホームのベンチは少し背が低い。長い足が不自然に折りたたまれているよりは、今のように足を組んでいる方がずっとセクシーだと麻衣は思った。それに、この方が彼にとっても楽そうに見える。


「……そうですよね。簡単には、辞められないですよね。」終夜の所作に見惚れながらも、麻衣は絶望したように繰り返す。

「簡単には、辞められないですよね。」麻衣は再びこぼれそうになる涙を、俯きながら必死にこらえようと試みた。

「分かりません。これはあくまで私の話ですから。あなたの仕事はやめられないのですか?」終夜は申し訳なさそうに麻衣の顔を覗き込んでいる。


 しかし、完全にうつむいてしまっている麻衣の顔を、完全に覗き見るには至らなかった。終夜はすっと体を引いて、静かなホームを眺めながら、また一口コーヒーを飲んだ。

「うん。新卒で、まだ一年目だから。このタイミングで辞めるだなんて考えられなくて。でも忙しくて忙しくて、全然休めないし、職場はずっとピリピリしていて。上司や先輩が、ミスするたびに声を荒げるんですよ。それが私、すごく怖くて。……そりゃもちろん、ミスしたのは私が悪いって分かってはいるんですけど。会社勤めって、みんなこんな感じなのかな。大学生活が恋しくなってきちゃいました。」麻衣の言葉数がゆっくりと増えていく。またぽろぽろと涙がこぼれて、肩を震わせながら言葉を紡ぐ。

 終夜は、きれいに折り目のついたハンカチを差し出しながら、麻衣が語るのを遮ることなく聞いていた。


「今日も、残業だったのですか?」

「そう、そうなの。しかも今日はいつもより遅くて、終電にすら間に合わなくて、スマートフォンも充電切れで、もう、散々で……。」麻衣は力なくうなだれながら、終夜からもらったハンカチを握りしめた。

「家に帰ったらお母さんが、大好きなオムライスを作って待っていてくれてるのに。最近はお父さんともお母さんともまともに話せてなくて、心配させてて。だから今日だけは帰りたかった。早く、帰りたかったのに……!」麻衣は悔しさを噛みしめるような顔をした。


「なるほど、それがあなたの未練ですか。」終夜が唐突につぶやいた。

「え?」麻衣は困惑したように終夜を見つめる。

「あなたは家に帰りたかったのですね?」終夜は困惑する麻衣を無視して、確認するように問いかけた。

「そうですか。あなたは家に帰りたかった。けれど駅に着いた時にはすでに終電の時間を過ぎていて、疲れ切っていたあなたはそのまま駅で眠ってしまった。ただ眠ってしまっただけならよかったのですが、さて、この先はもう必要ないでしょう?ありがとうございました。」


「え?」よどみなく語り切った終夜の言葉に、麻衣はなおも状況を呑み込めないまま困惑した表情を浮かべている。

「長谷川麻衣さん。気がつきましたか?もうすぐ始発のお時間ですよ。」終夜はおもむろに立ち上がって、電車の来る方を指し示した。

 気が付けば、ちらほらと始発目当ての人がホームに立っており、電光掲示板の表示が電車の到着時間を映し出している。


 麻衣はゆっくりと立ち上がって、終夜の指し示す方を見た。地下鉄のホームに生ぬるい風が吹き始める。まだ姿は見えないが、もうすぐホームに電車が入ろうとしているようだ。

「麻衣さん、これでようやく家に帰れますね。そうでしょう?」終夜はにこやかに麻衣の方を振り返った。

「はい。帰れます。やっと、帰れそうです。」麻衣は涙を流し始めた。それは、さっきまで流していたのとは違う、完全なるうれし涙だった。


 麻衣は少しずつ、黄色い線の近くまで歩を進めた。人がいると言っても、簡素な駅の早朝だ。まばらに点在する人影たちは、麻衣と終夜には気づいていないか、まるで気にも留めていないかのようだった。

 電車がホームへとやってくる。出発まではまだそれなりに時間がある。人影たちは電車の到着とともに、するすると乗り込んで席に着く。座るとともに、目をつむってしまうような人もいる。


「あ、終夜さん。おはようございます。」唐突に名前を呼ばれた終夜は、声のする方へと振り向いた。

 立っていたのは中学校の制服を着た少女だ。小走りで来たのか、わずかに息を切らせて立っている。

「早いですね、夢さん?」夢と呼ばれた少女は、眉をひそめて問いかける。

「さっきまで、誰かと話していませんでしたか?」怪訝そうな夢に対して、終夜は何事もなかったかのように返答した。


「いいえ?誰もいませんでしたよ?」

「ほんとですか?……てかあれ、今日は女の人いないんだ。なんでだろ。」

「女の人、ですか。」夢の唐突な呟きに、終夜は不思議そうに首を傾げた。

「女の人ですよ。ここ、その手の話で有名じゃないですか。終点から始発までの間の時間、ホームのベンチに座ってる女の人がって。」


「そうでしたか。ですがもう、なんの心配もなくなりましたよ。」終夜はにこやかに微笑んだ。

「ところで夢さん、そろそろお時間ではないですか?」終夜の言葉に、怪訝そうにしていた夢が、はっと我に返ったように走り出す。

「やばっ。」夢が電車に乗り込むのとほぼ同時に扉が閉まり、緩やかに電車が動き出した。

 安堵した夢が、電車の窓からホームを見ると、もうすでにそこには誰もおらず、ベンチの上には水の入っていたであろうペットボトルの残っているのが、かろうじて見えただけだった。


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