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夜は記憶の片隅で  作者: Nova


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第1話:残業終わりの待機列(前編)

 夜の街を歩いていると、時々誰かとすれ違う。騒々しい繁華街を通り抜け、住宅地とビルの間を潜り抜け、ポツポツと途切れ途切れに続く電灯の下を渡り歩き、もはや感覚すらないヒールの足を引きずりながら、長谷川麻衣(はせがわまい)は最寄駅のホームにたどり着く。


 やっと座れる。やっと靴が脱げる。眠れるのはもう少し先かもしれないけれど、やっとこの窮屈な肩の荷を下ろすことができる。そう思うと、麻衣は少しだけ安堵した。

 終電のとうに過ぎた駅には、もう駅員すら姿を見せない。申し訳程度に灯りがついているものの、何もかもがシンと静まり返っている構内で、コツコツと鳴る自分の足音だけが嫌に大きく響いてしまう。そのせいか、麻衣はどうにも落ち着かない気持ちになっていた。


 あぁいやだ、いつもはもう少し早く帰れているのになんでかな、なんて思いながら、彼女は充電の切れたスマートフォンを握りしめた。思わずふぅとため息が漏れる。

 全くどうしてこうなるのだろう。社会人になったら忙しくなる。そんなことは彼女にだってわかっていたのに、こんな時間まで帰れなくなるほど大変だとは思っていなかった。


 修正に次ぐ修正。次々に舞い込む雑用。ミスするたびに怒鳴り散らす上司。残業続きで、家ではほとんど休めないまま会社へと通勤する日々。まだ実家暮らしの彼女は、いつしか母が用意してくれるご飯を温め直して食べる夜が日課になってしまっていた。お昼のためにお弁当も作っていたけど、それを食べる時間もないほど走り回って、いつもへとへとで帰路に就く。ここ最近はろくに眠れていないせいで、鏡の中の麻衣の顔は目の下にクマができていた。


「あぁもう、やんなっちゃうなぁ。」

 誰もいないのをいいことに、精一杯の呟きを吐き捨てる。帰りたい。帰らせて欲しい。最近父とも母とも話せていない。充電が切れる前に見たスマートフォンの画面には、心配した母からのメッセージの通知が確認できた。

「今日は早く帰りなさいよ?働くのもいいけれど、働き過ぎは体に毒よ?まいちゃんの大好きなオムライス、作っておくからね。」


 母からのメッセージはとても優しかった。それなのに今自分は、ホームのベンチに座って、少しでも仮眠を取れないかなんて考えている。そのことが彼女を、より一層悲しい気分にさせていた。

「こんな生活もう嫌だ。」

 麻衣の口から漏れた本音は、誰もいない夜のホームにこだまする。次の電車は始発になる。何の情報も映っていない真っ黒い電光掲示板を見ていると、彼女の目から涙がこぼれた。


 仕事を辞めてしまいたいと思ってはいても、新卒で入社してまだ幾月もたっていない事実が、彼女の判断を鈍らせる。こんな短期間ではやめられない。何社も受けて、やっと受かった会社なんだから、せめて3年は頑張らないと。それに今辞めて、次が見つかるどころか経歴に傷がついたらどうしよう。そんな思考が彼女の頭を埋め尽くしていた。


「お嬢さん、大丈夫ですか?」

 ふいに、頭の上から声がする。いつの間にか俯きながら泣いていた麻衣は、驚いたように顔を上げた。

「大丈夫ですか?お嬢さん?」

 さっきとほぼ同じ言葉を繰り返すスーツ姿の男性は、笑っているかのように細い目で、麻衣を見下ろしている。彼女は自分の意識が、ほんのしばらく飛んでいたことに気づいた。


「あ、大丈夫です。」かろうじて絞り出した麻衣の声は、ひどくかすれて聞き取りづらかった。

「そうですか?随分と泣いていらっしゃったので、何かあったのではと心配になってしまいまして。おや、ひどいクマですね。お体の調子はどうですか?」男性は遮る間もなくしゃべり続ける。

「あ、はは。へへへ。大丈夫です。本当に、大丈夫です。」麻衣はなんとか笑おうとした。

 けれど麻衣の意志に反して思うようには笑えず、上がり切らない口角からはひきつったような笑い声が出るだけだった。


「あぁ、えぇ、調子が悪いのですよね?配慮が足りず失礼しました。そうだ、少々お待ちを。」そう言って男性は、麻衣のそばから離れていった。

 麻衣は折りたたんで凝り固まっていた体を、伸びをしてほぐした。大きく息を吸い込むと、生ぬるい空気が肺の中へと侵入してくる。息を吐いて、男性の歩いて行った方を見ると、ホームに備え付けの自動販売機の前にいた。男性が自動販売機で飲み物を買っているのをぼーっと見つめていると、ほんの少しだけ心が落ち着いていくのを感じられる。


 男性が自動販売機に向かっているのをいいことに、麻衣は男性を観察しだした。年齢は30前後だろうか。自分ともそう変わらないように見えるけれど、どこかずっと大人びた雰囲気を漂わせている。スーツは紺色で、しっかりと手入れされているかのようにピシッと整い、けれど決していやらしくなく、彼の整った顔立ちと、すらっとした体躯に手足、背が高くてモデルのようなプロポーションには、一切浮くことなくなじんでいるようにも感じられた。


「おや、ぼーっと見つめて、どうしましたか?」いつの間にか目の前に立っていた男性に、麻衣は思わずびくっと驚いた。

「おわ⁉」やっぱりぼーっとしていたらしい彼女は、素っ頓狂な声を上げてのけ反った。

「失礼しました。驚かせるつもりはなかったのですが。大丈夫ですか?あぁそうだ、忘れるところでした。どうぞ、これを。」そういうと男性は、麻衣に向かってペットボトル飲料を差し出した。


「ん?」麻衣は不思議そうな声を発した。

「ん?」男性もキョトンとした顔で首を傾げた。

「水分です。いりませんでしたか?」男性は、自分が差し出したペットボトル飲料について説明した。

「先ほどまでものすごく泣いていらしたでしょう?水分、取った方がいいですよ?」男性は再びそれを差し出した。改めてみると、それは水のペットボトルだった。


「あ、ありがとうございます……?えっと、お金を……。」麻衣は水のボトルを受け取ると、飲むよりも先に自分の鞄へと手を伸ばした。明らかに男性が買ってくれたのであろうそれを、ただで受け取ってしまうのは申し訳ないと思ったからだ。

「あぁ、気にしなくとも構いませんよ?いえ、見ず知らずの男に施しを受けるのは、もしかしたらご不安なのかもしれませんが。そうですね、話を聞いたらすぐにいなくなるとお約束しましょう。」男性は焦ったように言葉を続けた。


「あ、はい。えっと、お話って?」麻衣は少し警戒したように問いかけた。男性のそれが、どういう種類の要求なのかが即座に判別できなかったからだ。

「えぇ、泣いていらしたでしょう?何か、吐き出してしまったら楽になるのでは、と思いまして。私、職業柄、人間にとても興味がありますから、心を軽くするついでと思って、軽率にお話ししてはいただけませんか?」男性は細い目をさらに細めて微笑んでいる。

「あ、そうだ。私、朝見終夜(あさみしゅうや)と申します。以後お見知りおきを。」そう言って男性、もとい朝見終夜は、再びにこりと微笑んだ


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