雨のあとに
6月19日
朝の空は厚い雲に覆われていた。
窓の外から差し込む光も弱くて、部屋の中には小野ちゃんたちの寝息と、私の足音だけが静かに響いている。
今日は囲碁部の活動日だった。
社長と対局する約束もしている。
ベランダでは、風が雨粒を巻き込みながら吹き込んでいた。
私は空を見上げる。
頬に当たる風は少し冷たい。
――今日は、たくさん降りそうだな。
そう思った瞬間。
指先にひやりとした感触が広がった。
見ると、歯ブラシではなく手の上に歯磨き粉を出してしまっていた。
「……あ」
思わず小さく笑った。
……
「負けました」
左下の複雑な攻防を見つめながら、私は静かに二子を盤上へ置いた。
窓の外では雨が降り続いている。
空は灰色の大きな網みたいで、風に揺れる枝葉が長い髪のように揺れていた。
「ここまで打てるなら十分だよ」
向かいに座る社長が笑う。
「この辺りなんか、かなりしっかり読めてる」
私は立ち上がり、もう一度盤面を見下ろした。
「ありがとうございます」
社長の言葉に頭を下げる。
けれど、胸の中はどこか重たいままだった。
雨音は変わらず窓を叩いている。
背後からエアコンの風が吹きつけてきて、思わず肩をすくめた。
「社長……」
「ん?」
私は碁石を握ったまま盤面を見つめていた。
社長はきっと今もこちらを見ている。
そう思うと、余計に言葉が出てこなくなる。
「……なんでもないです」
「そう?」
「ただ、呼んでみたくなっただけです」
無理やり笑ってみせる。
社長は少しだけ首を傾げたあと、リモコンに手を伸ばした。
エアコンの温度が一度だけ上がる。
「七奈」
名前を呼ばれた瞬間。
胸の奥がびくりと跳ねた。
「あ、はいっ」
「もう一局打とうか」
「……はい」
しばらくして。
盤面の上には再び白と黒が並んでいた。
「社長は、どうして囲碁を好きになったんですか?」
私は石を置きながら尋ねる。
「んー」
社長は少し考えてから笑った。
「最初は『ヒカルの碁』かな」
そう言いながら一手打つ。
「それで囲碁を知って」
また一手。
「気づいたら囲碁そのものが好きになってた」
長く息を吐く声が聞こえた。
「じゃあ社長って、すごく強いんですね」
私がそう言うと、
「それはちょっと違うかな」
社長は小さく笑った。
そして、軽く小尖に打った。
まるで小さなお説教みたいだった。
「好きなものってさ」
雨音が静かに続いている。
「別に一番上手じゃなくてもいいんだよ」
黒石が盤上に置かれる。
「自分が好きなら、それで十分だから」
窓の外では雨粒が地面を叩いていた。
その音はどこか、碁石の音にも似ている気がした。
帰り道。
私たちはそれぞれ傘を差して、肩を並べて歩いていた。
雨はまだ降り続いている。
「なんとなくだけど」
社長が前を向いたまま言う。
「今日の七奈、少し変だね」
私は足元を見る。
濡れたアスファルトが街灯の光をぼんやり映していた。
「私、ですか?」
「うん」
少し間が空いた。
「何かあった?」
私は首を振る。
「別に何も……」
そう言って歩く速度を速めた。
雨音が大きくなる。
後ろから社長の声が聞こえた。
「言いたくないなら、それでもいいよ」
その瞬間だった。
「だから……本当に何もないんです」
気づけば声が大きくなっていた。
自分でも驚くくらい。
体が小さく震えている。
社長は何も言わなかった。
私は視線を逸らし、そのまま早足で歩き出した。
雨が顔に当たる。
冷たい。
でも。
頬を流れているものが雨なのかどうか、自分でもよく分からなかった。
寮へ戻ると、私は傘をベランダへ放り出した。
そのまま布団の中へ潜り込む。
冷たい布団の中で丸くなる。
「七奈、体調悪いの?」
鈴木ちゃんの声が聞こえた。
「ううん……ちょっと疲れただけ」
なるべく普段通りに答える。
「じゃあ静かにしようか」
「うん、私たち外で話そう」
「七奈、ちゃんと休んでね」
ドアが閉まる音がした。
部屋には扇風機の回る音だけが残る。
私はそっと布団をめくった。
枕元のうさぎさんを抱き上げる。
胸の前でぎゅっと抱きしめた。
少しだけ。
ほんの少しだけ温かくなるまで。
目が覚めた頃には、部屋はもう真っ暗だった。
隣にはうさぎさんが静かに置かれている。
聞こえるのは、みんなの寝息だけ。
私はそっとベッドを降りた。
机の前に座ってぼんやり床を見る。
すると。
お腹が小さく鳴った。
「……お腹空いた」
立ち上がって水を飲もうとした時だった。
月明かりの中に、小さなおにぎりが見えた。
机の上に置かれている。
きっと、小野ちゃんたちだ。
私はそれを手に取って、静かにベランダへ出た。
包装を開く。
肉そぼろの香りがふわりと広がった。
少し冷たくて。
少し固くなっていた。
それでも。
どこか安心する味だった。
私はもう一口かじる。
雨はいつの間にか止んでいた。
今度会ったら、ちゃんと言おう。
ありがとうも、ごめんも。




