表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/40

雨宿り

そういえば。


今日の日記を書いていたら、あの子のことをもっとちゃんと残しておきたくなりました。


だから、明日は昔うちにいた猫ちゃんのお話を、番外として書こうと思います。

6月14日


ぱた、ぱた。


雨粒が傘の上を叩いて、軽やかな音を繰り返している。道を歩きながら、水たまりをぼんやり見つめた。落ちた雨粒は小さな波紋を広げていく。ふと、小川で魚が水面をつついて、丸い輪を描いていた景色を思い出した。


風がこぼれた雨を連れて傘の下へ忍び込み、ひんやりとした雨粒がそっと袖を濡らした。


「運が悪いね。最近、ずっと雨ばっかりだ」


兄さまは傘を持ちながら、少し困ったように笑った。


見上げた空には、厚い雲が重たいカーテンみたいに広がっている。


――太陽のおじさん、きっと今ごろどこかで顔を洗ってるんだろうな。


夕方の風が傘の下へ入り込み、思わず腕を組んで小さく身震いする。すると、頭上の傘がそっと私の方へ傾いた。


兄さまを見上げると、私は自然とその肩へ寄り添った。


「兄さま、手、疲れない? 私が持つよ」


手を伸ばしてそう言うと、


「いいよ。とりあえず、どこかで雨宿りしよう」


兄さまは傘を持つ手を少し上げたまま、相変わらず私の方へ傾けていた。


その手を見て、私は思わず腕を絡める。


「もう、そんなに傾けないでよ」


道端の花屋さんの前には、色とりどりの花が並んでいた。


花たちは雨よけの屋根の下に身を寄せていて、まるで傘を差して雨を避ける私たちみたい。


小さな精霊たちが、肩を寄せ合っているようにも見えた。


私たちは小走りで駆け寄り、その小さな避難所へ入り込んだ。


兄さまは傘を閉じ、ときどき空を見上げる。


「しばらく止みそうにないね。ここで少し待とうか」


傘についた雨粒を払って壁に立てかける。


私は鉢植えの花を眺めていた。


ふと、ゲームの設定を思い出す。


蝶の種を植えれば花が咲く。


――もしかしたら、この花たちは、まだ蝶になる前の夢を見ているのかもしれない。


きりん、と風鈴が鳴った。


花屋の扉がゆっくり開く。


「いらっしゃいませ。雨宿りですか?」


「はい。すみません、勝手に入ってしまって……」


兄さまは少し慌てたように答えた。


「大丈夫ですよ。今はお客さんもいませんし、どうぞ中でお待ちください」


店主さんは笑いながら、扉をもう少し広げてくれた。


私は兄さまの隣で、小さな声で尋ねた。


「こんなふうにお邪魔して、ご迷惑じゃないですか?」


「全然。こんな雨の日ですもの」


店主さんは優しく笑った。


「じゃあ、お邪魔します」


店内にはたくさんの花が飾られていて、花材も棚や床にきれいに並べられていた。


まるで、やってきた人たちを静かに迎えてくれているみたいだった。


「どうぞ、お座りください」


店主さんは麦茶を持ってきて、私たちのコップへ注いでくれた。


私も兄さまも、両手で受け取る。


ひんやりとした麦茶の香りが鼻をくすぐる。


一口飲むと、冷たさが喉を通っていった。


なのに、不思議と胸の奥はぽかぽかと温かくなっていく。


ちょうどいい甘さのフルーツキャンディを、そっと口の中で転がしているみたいだった。


淡い花の香りがゆっくりと天井へ昇っていく。


壁の時計が小さく揺れて、こち、こち、と音を刻む。


軒先を叩く雨音と混ざり合って、店の中に静かな時間が流れていた。


「ありがとうございました」


私と兄さまは軽く頭を下げた。


「そんなにかしこまらなくてもいいですよ」


その言葉のすぐあとだった。


真っ黒な猫がぴょんと飛び込んできて、店主さんの腕の中で丸くなった。


「わあ……黒猫ちゃん。かわいい」


私は思わず身を乗り出した。


「黒風っていうんです」


店主さんは猫を抱き上げた。


丸い顔がテーブルの縁からひょこっとのぞく。


小さな前足をそっと持って、私たちへ向かって手を合わせるみたいな仕草をさせた。


戸惑ったような黒風の顔がおかしくて、私は思わず笑ってしまう。


そして、自分も手を合わせてぺこりと頭を下げた。


店主さんは黒風を優しく撫でながら言った。


「もう十年も一緒にいるんですよ。昔は田舎に住んでいて、学校から帰るたびに、家族と一緒に玄関で待っていてくれたんです」


「そうだったんですね……」


私は小さく返事をした。


誰かを待ってくれる存在。


その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていった。


しばらくすると、雲は少しずつ薄くなっていった。


太陽が雲をかき分けるように顔を出し、澄んだ青空が広がっていく。


気づけば、私たちの手にはピンク色の百合の花束があった。


水族館に着いた頃には、もう閉館間際だった。


それでも、最後のショーには間に合った。


調教師さんとイルカたちは息ぴったりで、水しぶきを上げながら素敵な演技を見せてくれる。


会場のあちこちから、楽しそうな笑い声が聞こえていた。


……


夕食の席に運ばれてきたのは、実家でしか食べられない郷土料理だった。


湯気の向こうから漂ってくる匂いは、記憶の中にあるものとほとんど変わらない。


昔、おじいちゃんとおばあちゃんと山を登った帰り、いちばん楽しみにしていたのがこの味だった。


私は箸でひとつつまんで、そっと口へ運ぶ。


その瞬間、鼻の奥がつんとして、目の奥がじんわりと熱くなった。


私は箸を置いて、窓の外へ目を向けた。


……そういえば。


昔、うちには一匹の猫がいた。


大きな茶トラの猫だった。


学校から帰るたびに、その子は前足を胸の下へしまいこんで、玄関の近くで私の帰りを待っていてくれた。


玄関の戸を開けると、「にゃあ」と鳴いて、足元へ駆け寄ってくる。


私はいつもしゃがみこんで、その子をそっと抱き上げた。


腕の中で喉を鳴らす音を聞きながら、「ただいま」って小さく声をかけるのが好きだった。


でも、ある日。


その子は、ふっと姿を消してしまった。


何かおかしいと気づいた頃には、もうどこにもいなかった。


猫は最期が近づくと、ひとりで姿を隠すことがあるって、あとになって知った。


あの子も、どこか静かな場所で、ひとり眠りたかったのかもしれない。


私は何度も名前を呼んだ。


家の周りも探した。


玄関の前で、いつものように「にゃあ」って声が聞こえる気がして、何度も振り返った。


けれど、その声は最後まで聞こえなかった。


ぽつり。


また、ひとつ。


窓の外では、雨が静かに降り始めていた。


街の景色が、少しずつ滲んでいく。


それが雨のせいなのか。


それとも、別の理由なのか。


自分でも、よくわからなかった。


気がつくと、目の前にティッシュがそっと差し出されていた。


「……ほら」


耳元で、兄さまの少し困ったような声がした。


「うん」


私は小さく頷いて、そのティッシュを受け取る。


窓の外では、雨が静かに街を洗っていた。


あの子も、どこかで雨宿りできていたらいいな。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ