雨宿り
そういえば。
今日の日記を書いていたら、あの子のことをもっとちゃんと残しておきたくなりました。
だから、明日は昔うちにいた猫ちゃんのお話を、番外として書こうと思います。
6月14日
ぱた、ぱた。
雨粒が傘の上を叩いて、軽やかな音を繰り返している。道を歩きながら、水たまりをぼんやり見つめた。落ちた雨粒は小さな波紋を広げていく。ふと、小川で魚が水面をつついて、丸い輪を描いていた景色を思い出した。
風がこぼれた雨を連れて傘の下へ忍び込み、ひんやりとした雨粒がそっと袖を濡らした。
「運が悪いね。最近、ずっと雨ばっかりだ」
兄さまは傘を持ちながら、少し困ったように笑った。
見上げた空には、厚い雲が重たいカーテンみたいに広がっている。
――太陽のおじさん、きっと今ごろどこかで顔を洗ってるんだろうな。
夕方の風が傘の下へ入り込み、思わず腕を組んで小さく身震いする。すると、頭上の傘がそっと私の方へ傾いた。
兄さまを見上げると、私は自然とその肩へ寄り添った。
「兄さま、手、疲れない? 私が持つよ」
手を伸ばしてそう言うと、
「いいよ。とりあえず、どこかで雨宿りしよう」
兄さまは傘を持つ手を少し上げたまま、相変わらず私の方へ傾けていた。
その手を見て、私は思わず腕を絡める。
「もう、そんなに傾けないでよ」
道端の花屋さんの前には、色とりどりの花が並んでいた。
花たちは雨よけの屋根の下に身を寄せていて、まるで傘を差して雨を避ける私たちみたい。
小さな精霊たちが、肩を寄せ合っているようにも見えた。
私たちは小走りで駆け寄り、その小さな避難所へ入り込んだ。
兄さまは傘を閉じ、ときどき空を見上げる。
「しばらく止みそうにないね。ここで少し待とうか」
傘についた雨粒を払って壁に立てかける。
私は鉢植えの花を眺めていた。
ふと、ゲームの設定を思い出す。
蝶の種を植えれば花が咲く。
――もしかしたら、この花たちは、まだ蝶になる前の夢を見ているのかもしれない。
きりん、と風鈴が鳴った。
花屋の扉がゆっくり開く。
「いらっしゃいませ。雨宿りですか?」
「はい。すみません、勝手に入ってしまって……」
兄さまは少し慌てたように答えた。
「大丈夫ですよ。今はお客さんもいませんし、どうぞ中でお待ちください」
店主さんは笑いながら、扉をもう少し広げてくれた。
私は兄さまの隣で、小さな声で尋ねた。
「こんなふうにお邪魔して、ご迷惑じゃないですか?」
「全然。こんな雨の日ですもの」
店主さんは優しく笑った。
「じゃあ、お邪魔します」
店内にはたくさんの花が飾られていて、花材も棚や床にきれいに並べられていた。
まるで、やってきた人たちを静かに迎えてくれているみたいだった。
「どうぞ、お座りください」
店主さんは麦茶を持ってきて、私たちのコップへ注いでくれた。
私も兄さまも、両手で受け取る。
ひんやりとした麦茶の香りが鼻をくすぐる。
一口飲むと、冷たさが喉を通っていった。
なのに、不思議と胸の奥はぽかぽかと温かくなっていく。
ちょうどいい甘さのフルーツキャンディを、そっと口の中で転がしているみたいだった。
淡い花の香りがゆっくりと天井へ昇っていく。
壁の時計が小さく揺れて、こち、こち、と音を刻む。
軒先を叩く雨音と混ざり合って、店の中に静かな時間が流れていた。
「ありがとうございました」
私と兄さまは軽く頭を下げた。
「そんなにかしこまらなくてもいいですよ」
その言葉のすぐあとだった。
真っ黒な猫がぴょんと飛び込んできて、店主さんの腕の中で丸くなった。
「わあ……黒猫ちゃん。かわいい」
私は思わず身を乗り出した。
「黒風っていうんです」
店主さんは猫を抱き上げた。
丸い顔がテーブルの縁からひょこっとのぞく。
小さな前足をそっと持って、私たちへ向かって手を合わせるみたいな仕草をさせた。
戸惑ったような黒風の顔がおかしくて、私は思わず笑ってしまう。
そして、自分も手を合わせてぺこりと頭を下げた。
店主さんは黒風を優しく撫でながら言った。
「もう十年も一緒にいるんですよ。昔は田舎に住んでいて、学校から帰るたびに、家族と一緒に玄関で待っていてくれたんです」
「そうだったんですね……」
私は小さく返事をした。
誰かを待ってくれる存在。
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていった。
しばらくすると、雲は少しずつ薄くなっていった。
太陽が雲をかき分けるように顔を出し、澄んだ青空が広がっていく。
気づけば、私たちの手にはピンク色の百合の花束があった。
水族館に着いた頃には、もう閉館間際だった。
それでも、最後のショーには間に合った。
調教師さんとイルカたちは息ぴったりで、水しぶきを上げながら素敵な演技を見せてくれる。
会場のあちこちから、楽しそうな笑い声が聞こえていた。
……
夕食の席に運ばれてきたのは、実家でしか食べられない郷土料理だった。
湯気の向こうから漂ってくる匂いは、記憶の中にあるものとほとんど変わらない。
昔、おじいちゃんとおばあちゃんと山を登った帰り、いちばん楽しみにしていたのがこの味だった。
私は箸でひとつつまんで、そっと口へ運ぶ。
その瞬間、鼻の奥がつんとして、目の奥がじんわりと熱くなった。
私は箸を置いて、窓の外へ目を向けた。
……そういえば。
昔、うちには一匹の猫がいた。
大きな茶トラの猫だった。
学校から帰るたびに、その子は前足を胸の下へしまいこんで、玄関の近くで私の帰りを待っていてくれた。
玄関の戸を開けると、「にゃあ」と鳴いて、足元へ駆け寄ってくる。
私はいつもしゃがみこんで、その子をそっと抱き上げた。
腕の中で喉を鳴らす音を聞きながら、「ただいま」って小さく声をかけるのが好きだった。
でも、ある日。
その子は、ふっと姿を消してしまった。
何かおかしいと気づいた頃には、もうどこにもいなかった。
猫は最期が近づくと、ひとりで姿を隠すことがあるって、あとになって知った。
あの子も、どこか静かな場所で、ひとり眠りたかったのかもしれない。
私は何度も名前を呼んだ。
家の周りも探した。
玄関の前で、いつものように「にゃあ」って声が聞こえる気がして、何度も振り返った。
けれど、その声は最後まで聞こえなかった。
ぽつり。
また、ひとつ。
窓の外では、雨が静かに降り始めていた。
街の景色が、少しずつ滲んでいく。
それが雨のせいなのか。
それとも、別の理由なのか。
自分でも、よくわからなかった。
気がつくと、目の前にティッシュがそっと差し出されていた。
「……ほら」
耳元で、兄さまの少し困ったような声がした。
「うん」
私は小さく頷いて、そのティッシュを受け取る。
窓の外では、雨が静かに街を洗っていた。
あの子も、どこかで雨宿りできていたらいいな。




