ただいま
6月11日
机の上の本は、山みたいに高く積み重なっていた。
ペンを置いて、一番下に埋もれていた日記帳を手に取る。
「もう、ずいぶん書いてなかったなあ」
指でページの端をなぞりながら、小さく息を吐いた。
……最近、いろんなことがあったんだよね。
……
先週末の朝。
太陽の光がガラスを抜けて、こっそり部屋の中へ入り込み、みんなに「もう起きなさい」って知らせていた。
私はベッドに座ったまま、ぼんやりと床を見つめていた。
小さい頃、毎朝、大きな鶏が「コケコッコー」って鳴いて、みんなを起こしてくれていた。
「こけこっこー、怖くないよー」
私は大きな鶏の後ろを追いかけながら、得意げにそう言っていた。
おじいちゃんは木の下に座って、うちわでぱたぱたと風を送っていた。
あの頃の陽射しも、きっと今みたいにぽかぽかしていたんだろうな。
でも、私はいつも鶏に追いつけなかった。
鶏が食べられちゃった日、私は木の下に隠れて、ずっと泣いていた。
あの日の風はさらさらと鳴っていて、葉っぱが時々、私の隣に落ちてきた。
……
部屋はしんと静まり返っていて、小野ちゃんたちはもう帰ってしまっていた。
週末は花火大会だから、みんな準備しているんだろうな。
私は立ち上がって、急いで歯を磨いた。
出かけるとき、靴のかかとがちゃんと履けていないことに気づいて、しゃがみこんで直した。
最後にもう一度部屋を見回して、そっと鍵をかける。
地下鉄はいつものように、人でぎゅうぎゅうだった。
空から見たら、黒い小さな紙切れが、箱の中を行ったり来たりしているみたいに見えるのかな。
……
家に着いた頃には、空は熟したりんごみたいに真っ赤だった。
思わず、かじりたくなるような色。
「ただいま」
靴を脱ぎながら、小さな声で言った。
「おかえり。手洗い忘れないでね」
キッチンから、お母さんの声が聞こえてくる。
――とんかつの匂いがする。
そう思った瞬間、リビングの奥からミミがこっそり出てきた。
足元をぐるぐる回りながら、すりすりと身体を擦りつけてくる。
「わかったよ」
お母さんに返事をしながら、私はゆっくりしゃがんで、ミミを抱き上げた。
「ミミ、ママのこと想ってた?」
「ゴロゴロ……」
気持ちよさそうな音が胸元に伝わってくる。
リビングへ入ると、きれいに片付いたテーブルと、誰も座っていないソファが目に入った。
私はキッチンの方へ顔を向ける。
「ママ!」
「ん?どうしたの?」
「兄ちゃんたち、まだ帰ってないの?」
「まだよ。もうすぐ帰ってくるんじゃない?」
お母さんは笑いながら答えた。
私はミミをそっと床に下ろして、キッチンへ駆け込んだ。
野菜を洗っているお母さんの隣で、自分も手を洗う。
「ママ、手伝う」
お母さんの手から青菜を受け取って、蛇口をひねった。
「七奈、大きくなったね」
お母さんが少し笑った気がして、濡れた手をエプロンで拭いた。
私はその動きに気づいて、そっとお母さんの手を取った。
そして、昔みたいに、自分の頭の上へ乗せる。
お母さんの手は少しひんやりしていて、でも不思議と安心した。
窓の外の夕陽が身体に当たっていた。
夏だから熱いはずなのに、なんだか気持ちよかった。
……
お父さんと兄さまが帰ってきた頃、ごはんもちょうどできあがりそうだった。
お母さんと一緒に手を洗いながら、身体に料理の匂いが少し染みついているのを感じる。
――あとで早くお風呂入らなきゃ。
そう思いながらも、テーブルいっぱいの料理を見て喜ぶ顔を想像すると、少し嬉しくなった。
夜、みんなでごはんを食べながら、最近あったことを話した。
今思えば、家ってこういうものなんだよね。
平凡で。
でも、とっても楽しい。
食事のあと。
兄さまが小さな箱を差し出してきた。
「兄ちゃん、なに?」
「服。きっと気に入ると思う」
箱を受け取って開けてみると、中にはミルク色の大きなフリルのスカートと、小さな麦わら帽子。
帽子には、茶色いリボンが結ばれていた。
「これって……?」
「この前「カードキャプターさくら」見てたときさ、あのシーンだけ何回も巻き戻してただろ」
兄さまは笑いながら、私の頭を軽く撫でた。
「だから、たまたま見つけたときに思い出した」
「……覚えてたの?」
「そりゃ覚えてるよ」
私はしばらく言葉が出なかった。
それから、箱を抱きしめたまま、ぴょん、と二回跳ねた。
「ありがとう、兄ちゃん!」
ソファでテレビを見ていたお父さんとお母さんが、こちらを振り返った。
「七奈が着たら、きっと似合うだろうな」
お父さんが笑う。
……
寝る前。
こっそり鍵をかけて、箱の中の服に着替えてみた。
鏡の中の自分を見ていると、目の奥がじんわり熱くなってくる。
翌朝。
いつものように目を覚まして、私は兄さまの部屋へ走った。
布団をめくって、その中へ潜り込む。
兄さまの隣は、まだ少し眠たくて、暖かかった。
太陽は小さなかたつむりみたいに、ゆっくり空の真ん中へ這い上がっていく。
「ごはんよー」
お母さんの声が廊下から聞こえてきた。
私の部屋のドアが開く。
「あら、七奈いないわね」
そのあと、足音が近づいてくる。
ドアが開いた瞬間、お母さんの顔には「やっぱりここにいたのね」って書いてあった。
「悠真、七奈。早く起きなさい、ごはんよ」
「はーい」
私たちはしぶしぶ布団をめくった。
お父さんも、ちょうど起きたばかりみたいだった。
……
ごはんを食べながら、午後の花火大会の話になった。
「ねえ、今年は行かなくてもいいかしら」
お母さんが窓の外の青空を見ながら言う。
「悠真と七奈はどうしたい?」
お父さんがこちらを向いた。
私たちは顔を見合わせた。
「七奈/兄さまに任せる」
同時に言ってしまって、二人ともぽかんとする。
それから、照れくさそうに笑った。
「行ったら、地下鉄も道も混むだろうしね」
結局、私たちは家でテレビの花火大会を見ることにした。
夜。
時計の針が六時に近づくにつれて、テレビの中ではカウントダウンが始まっていた。
私は、初めて花火大会へ行った日のことを思い出していた。
お母さんが着替えさせてくれた、ふわふわのピンク色の服。
着替え終わったあと、兄さまが私の手を引いて、一緒に外へ出た。
あの夜も、今日みたいに人が多かった。
アニメの主人公たちって、花火大会になると迷子になったり、告白したり、最後にはキスしちゃったりするんだっけ。
子どもの頃は、そんなの遠い世界の話だと思っていた。
でも、よかった。
あの夜は、兄さまがちゃんと私の手を握っていてくれたから。
10。
9。
8。
……
カウントダウンの声がリビングに響く。
私は隣に座る兄さまの手を、ぎゅっと握った。
兄さまは少し笑って、私の手をほんの少しだけ強く握り返した。
テレビの向こうでは、大きな花火が次々と夜空に咲いている。




