ふうふう
5月30日
昨夜、雨がそっと降り始めていた。
空はまだ完全に暗くなっていないのに、まるで濃い墨を一滴垂らしたみたいに、どんよりと重たかった。
たたた……。
雨は枝葉を叩き、土に落ちて、静かに地面へ染み込んでいく。
私は夕飯を食べながら、窓の外を眺めていた。
今日も、なんだか丸く収まった一日だったな……。
帰り道、風が雨を連れて傘の下へ忍び込み、頬に触れた。
冷たかったけれど、不思議と嫌じゃなかった。
「ただいま」
「おかえり」
井上ちゃんは机の前に座って、本を読んでいた。
「鈴木ちゃんと小野ちゃんは?」
奥の空いた席を見ながら、私はベッドに腰を下ろす。
「ああ、二人ならまだご飯食べてるんじゃない?」
「えっ、じゃあ二人……」
「大丈夫だよ。ちゃんと傘持って行ったから」
井上ちゃんはそう言って笑った。
「え、井上ちゃんすごい……」
「そんな心配そうな顔してたら、すぐわかるよ」
眼鏡を直しながら、少しだけ意地悪そうに笑う。
それから、ふと思い出したみたいに言った。
「そういえば七奈ちゃん、私がご飯食べたかどうかは聞いてくれないの?」
「わ、私……」
私はそのまま固まってしまった。
「ふふっ、冗談だよ」
井上ちゃんは肩を揺らして笑った。
でも、その言葉は小さな棘みたいに胸の奥へ残ったままだった。
……
今朝、私は少し早起きして、お気に入りのパン屋さんへ向かった。
朝の陽射しが頬をぽかぽかと温めている。
ガラス越しに見える店内は静かで、ほうきを掃く音だけが聞こえていた。
焼きたてのパンの上には、朝の光がやさしく降り注いでいる。
金色に輝くその景色は、まるで絵本の中みたいだった。
「きれい……」
思わず心の中で呟く。
りんりん——。
ドアを開けると、小さなベルが楽しそうに鳴った。
「いらっしゃいませ! ちょうど今朝焼き上がったところですよ」
店長さんが元気よく声をかけてくれる。
ショーケースには、スポンジケーキやマヨネーズパン、ココナッツパンが並んでいた。
どれも大切に飾られた作品みたいだった。
……
帰り道、私は紙袋を胸の前で抱える。
「みんな、喜んでくれるかな」
そう思うだけで、自然と歩く速度が少し速くなった。
……
寮へ戻ると、部屋の中にはまだ静かな寝息が漂っていた。
エアコンの音だけが、ふんわりと空気の中に混ざっている。
「まだ寝てるんだ」
私は小さく笑って、それぞれの机の上へパンを置いた。
きぃ……。
ベランダのドアがゆっくり開いた。
振り返ると、井上ちゃんと目が合う。
私は慌てて視線を逸らした。
「お、おはよう、井上ちゃん」
「おはよう、七奈ちゃん」
二人とも小さな声だった。
井上ちゃんは静かに部屋へ入り、椅子に腰掛ける。
私は自分の席へ戻ったけれど、なんだか落ち着かなくて。
背中越しに、向こうの気配ばかり気にしていた。
さらさら……。
窓の外では風が葉を揺らしている。
「七奈ちゃん」
「はいっ!」
思わず背筋がぴんと伸びる。
「このパン、七奈ちゃんが買ってきてくれたの?」
「その……昨日、井上ちゃんのこと、ちゃんと見れてなかった気がして……」
うつむいたまま、小さな声で答えた。
少しの沈黙。
「そっか」
井上ちゃんはそう言った。
それから。
「ありがとう、七奈ちゃん」
その声は、とても優しかった。
「ん……今何時……」
小野ちゃんの眠そうな声が聞こえる。
鈴木ちゃんも布団の中でごろごろと寝返りを打った。
「もう十時だよー。早く起きなさいー」
井上ちゃんが笑いながら言う。
本当はまだ九時過ぎなのに。
私は思わず吹き出しそうになった。
胸の奥に引っかかっていたものが、ふわっとほどけていく。
――よかった。
私は静かに息を吐いた。
……
夜。
浴室では、お湯の流れる音が静かに響いていた。
今日も、なんだか丸く収まった一日だった。
髪を乾かそうとベランダへ出る。
すると、後ろからドアが開く音がした。
「七奈ちゃん、髪乾かしてるんだ」
「うん。井上ちゃん使う?」
私はドライヤーを差し出そうとした。
けれど。
井上ちゃんは私の手をそっと止めた。
「違うよ」
「えっ?」
「今日は私がやる」
そう言って、自分のドライヤーのスイッチを入れる。
温かな風が髪を揺らした。
「あ、ありがとう……」
返事はなかった。
ただ、井上ちゃんの指が時々髪に触れて、そのたびに少しくすぐったかった。
……
「七奈ちゃん」
ドライヤーの音の向こうから、声が聞こえる。
「なに?」
「私たち、友達だよね」
私は少しだけ驚いた。
「どうして急に……?」
「だってさ」
井上ちゃんは笑った。
「友達って、一回失敗したくらいで終わるものじゃないでしょ」
温かい風が頬を撫でる。
「だから七奈ちゃん、そんなに頑張って完璧でいようとしなくていいんだよ」
私は黙ったまま聞いていた。
「七奈ちゃんが少しくらい失敗したって」
井上ちゃんの声は優しかった。
「私は嫌いになったりしないから」




