指先の、境界線
5月20日
ゴールデンウィーク最後の日。
太陽は地面をじんわりと温めていて、小さな水たまりだけが、まだ昨日の雨を覚えているみたいだった。
車の窓の外では、細い木々が静かに並んで立っている。通りはしんと静まり返っていて、数日前までのお祭りみたいな賑やかさが、まるで夢だったみたい。
……
車はゆっくりと学校の門の前で止まった。
見慣れた校門を見つめながら、私は兄さまの方を向いた。
「ねぇねぇ、兄さま。私の学校、ちょっと見てみない?」
「認証がないから、入れないかもしれないよ」
少し困ったように笑う兄さまを見て、私はくすっと笑った。
「えへへ、そこは私に任せて」
車を停めたあと、私は兄さまの腕に手を絡めて、一歩ずつ門の方へ歩いていく。
警備員のおじさんは別の方を見ていて、私が認証を済ませると、兄さまもこっそり後ろから入ってきた。
……
やわらかな陽射しが木漏れ日になって、地面へゆっくり落ちていく。
道にはまだ雨の跡が残っていて、涼しい風が緑の匂いを運びながら、そっと頬を撫でていった。
鳥の鳴き声と、葉っぱが擦れ合うさらさらという音だけが、静かなキャンパスに流れている。
私は歩く速さを少しだけ落とした。
兄さまの腕に絡めた手にも、ほんの少し力を込める。
目を閉じて、ゆっくり息を吸った。
目を開けなくても平気。
だって兄さまなら、ちゃんと隣にいてくれるから……
……
気づけば、太陽はゆっくり傾き始めていた。
私たちは湖の近くの長いベンチに座って、水面に映る夕陽を眺めていた。
風が止まるたび、湖はまるで鏡みたいに空を映している。
私は兄さまの肩に頭を預けながら、少しずつ小さくなっていく光をぼんやり見つめていた。
ふと顔を上げると、兄さまは静かに景色を見ている。
その横顔を見ていたら、頭が勝手に兄さまの方へ近づいていった。
その瞬間――
兄さまの指が、そっと私の唇の前に触れた。
「妹ちゃん、そんなに甘えちゃだめだよ」
私はぽかんとしてしまった。
……そっか。
兄さま、ずっと気づいてたんだ。
私は少しだけ笑って、もう一度兄さまの肩に頭を戻した。
「……うん」
……
寮に戻ると、小野ちゃんだけが部屋にいた。
机に座って、スマホで動画を見ている。
「ただいま」
「おかえり」
「え、鈴木ちゃんと井上ちゃんは?」
靴を揃えながら聞くと、小野ちゃんはスマホから目を離さず答えた。
「明日の朝授業ないから、お昼くらいに帰ってくるって」
「そっか……」
私はゆっくり小野ちゃんの後ろへ回って、その背中にそっと体を預けた。
「小野ちゃん、ひとりで寂しくなかった?」
「寂しくないよ。好きな動画見てたし、それに七奈ちゃんも帰ってきたじゃん」
小野ちゃんは少し笑いながらそう言った。
「ほら、早くお風呂入ってきなよ。夜更かし禁止」
「うんうん」
……
小さな椅子に座って、シャワーのお湯を浴びる。
温かい水が肩に落ちて、じんわり身体を温めていく。
私は目を閉じたまま、今日のことをぼんやり思い返していた。
……あのとき、兄さまの顔に近づいたこと。
唇に触れた指。
思い出しただけで、頬が少し熱くなる。
お湯のせいかな……
……
夜。
ベッドの下から、小さな物音がした。
顔を上げると、小野ちゃんが立っていた。
「小野ちゃん、どうしたの?」
「別にー。もう寝ちゃった?」
「まだだよ。早く寝ようと思ったのに、なんだか眠れなくて」
「じゃあ、一緒に寝てもいい?」
「え、いいよ」
小野ちゃんは枕を抱えたままベッドへ上がってきて、私の隣へもぐり込んだ。
部屋の中には、エアコンの音と風の音だけ。
私たちは並んだまま、しばらく黙っていた。
「七奈ちゃん」
「なに?」
「今日、一緒にいた人って、お兄さん?」
「えっ、見てたの!?」
「えへへ、偶然ね」
私は布団を少しだけ引き上げながら、小さく答えた。
「あれは……私のお兄ちゃん」
「そっか……」
……
また静かになる。
エアコンの風だけが、ゆっくり部屋を流れていた。
「七奈ちゃん、お兄さんのこと好き?」
「えっ……」
胸の奥が、どくんと跳ねた。
思わず、自分の胸に手を当てる。
「ち、違うよ……ただ、甘えたいだけだもん」
「うんうん。でも七奈ちゃん、お兄さんのこと大好きなの、すごく伝わってくるよ」
「呼び方とか、一緒に歩いてるときの顔とか」
「も、もう言わないで……!」
私は慌てて布団に顔を埋めた。
頭の中がぐちゃぐちゃで、目の奥が熱い。
「私……ただ兄さまのそばにいたいだけなのに……」
布団の中で、小さな声が漏れた。
すると、小野ちゃんがそっと近づいてきて、私を胸の方へ抱き寄せた。
背中を優しく、とんとん叩いてくれる。
……
気づけば、私はまた布団から顔を出していた。
「小野ちゃん……私のこと、変だと思わない?」
「思わないよ」
小野ちゃんは静かに笑った。
「むしろ七奈ちゃん、勇敢だと思う」
私は目を開ける。
目の前には、小野ちゃんの優しい顔。
視線が合った瞬間、私はまた恥ずかしくなって、黙ったまま彼女に寄りかかった。
「でも、どうしてそんなにお兄さんのこと好きなの?」
「だって……兄さまは兄さまだもん」
私はぽつりぽつりと話し始めた。
「六歳の誕生日の日ね、兄さまがイチゴのケーキを買ってきてくれたの」
「あのケーキ、兄さまにしか買ってもらえなかった……」
涙が、またぽろっと落ちる。
小野ちゃんは、しばらく何も言わなかった。
「だから私……兄さまが幸せなら、それでいいの」
「将来、お兄さんが結婚しても?」
「私は……兄さまが幸せになってくれるなら、嬉しいよ」
「私はずっと、妹のままでいるから……」
小野ちゃんは静かに目を伏せた。
「七奈ちゃんって、本当に恋してるんだね」
「えっ……」
私は言葉に詰まる。
すると小野ちゃんは、もう一度ぎゅっと私を抱きしめた。
そして、小さな声で言った。
「七奈ちゃんも、ちゃんと愛されていいんだよ」




