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<イングリッシュ・ホルン>


 金曜日の夜、ミヤサワ君は小さなコンサート・ホールの後ろの席に座っていた。ステージには5人の若い女性の管弦楽奏者が歌劇『イーゴリー公』の中の合唱曲『韃靼人の踊り』を管弦楽用にアレンジした曲を奏でている。ゆったりとした異国情緒のどこか物悲しい調べだ。オーボエとイングリッシュ・ホルンの主旋律が美しい。

 彼女達はお揃いの臙脂色のオフショルダーのロングドレスを着こなし、背筋を伸ばし、良い立ち姿勢で曲に会わせ上半身を揺らしている。


 《ボロディンの『韃靼人の踊り』だな。》

ミヤサワ君は心の中で独り言ちる。


 やがて演奏が終わり、拍手が鳴り響く。ステージの5人はふわっとお辞儀をする。ミヤサワ君も拍手する。良い演奏だったと素直に思う。


 「おじさま、いかがでした?」

不意に若い女性の霊がニコニコしながらミヤサワ君に話しかけてくる。演奏者と同じようなロングドレスに長い髪の若い女性だ。

 「すばらしい演奏だったね。特にオーボエとイングリッシュ・ホルンの悲しい木管の音色がすばらしかった。」

 「あら、ありがとうございます。あのイングリッシュ・ホルンの奏者は私の妹なの。私はあのイングリッシュ・ホルンに取り憑いているのょ。」


 「道理で鬼気迫る音色だと思ったよ。」

 「多かれ少なかれ、名器と呼ばれる楽器には、それまでの持ち主の魂がこもっているの。あのイングリッシュ・ホルンは私の楽器だったの。」

 「取り憑く先がイングリッシュ・ホルンとは、渋いねぇ。でも、そうなんだ。『韃靼人の踊り』は僕の好きな曲目の一つだよ。」



 「『韃靼人の踊り』がお好きなんて、おじさまも渋い趣味ですわねぇ。」

 「作曲者のボロディンは僕の大先輩なんだ。」

 「えっ? おじさま、そんなに昔の人なの?」

 「いや。僕の以前の本職の話しだよ。僕は、生前は有機化学者だったんだ。専門は有機フッ素化学だったんだ。ボロディン先生はドイツのハイデルベルク大学で学び、サンクトペテルブルグ大学で化学の教授になった人だよ。作曲は週末の休みの日に行っていたそうだ。本職は僕と同じ大学で化学を教える有機化学者だったんだ。そして、世界ではじめて有機フッ素化合物、つまり炭素−フッ素結合を持つ化合物を合成した人だよ。有機フッ素化学の始祖と呼んでもいい人なんだ。有機フッ素化合物というとエアコン冷媒のフロンとか、フライパンのテフロンとか…」

ミヤサワ君も専門の化学の話しになると…もう止まらない。それを聞いていたお姉さんの霊は、少し困った顔をした。


 「私、有機化学はわからないというか、高校の化学で挫折しちゃった人なんですけど…。ボロディン先生って、多才な人だったのね。」

 「そうだね。でも、化学者の中には音楽に造詣の深い方が多いようだね。 日本化学会の春季年会(学術集会)では、各大学の化学の先生が集まってコンサートを開いたことがあるよ。」


 しばしの沈黙のあと、ミヤサワ君は語りかけた。

 「ところで、僕は君みたいなこの世に未練を持って留まっている人を次のステージへ誘い、案内する仕事をしているんだ。」 

 「あら? もしかしておじさんは死神さん?」

ミヤサワ君はその死神と言う強い言葉ワードに苦笑した。

 「死神じゃないけど、あの世への案内人かな?」

 「そうね。大きな鎌を持っているわけじゃないし、メルヘンティックな緑のとんがり帽子だし。…お誘いいただき、ありがとうございます。でもね、私、まだまだこの世に留まっているつもりなの。」


 「そうか…無理強いはしないよ。でも、同じ楽器に取り憑いている…というか、『音楽の中に閉じ込められている』のは…辛くないのかな? 同じ演目を何度も繰り返すということは、演奏場所や演奏者が異なっていても、結局同じ曲を繰り返すことになるのではないかな? 『音楽の中に閉じ込められている』ということではないのかな?」

 「全然辛くはないわ。それに同じ楽曲の中に閉じ込められているわけではないのよ? 楽曲は人生に似ているの。序曲から始まり、終曲で終わる。繰り返しながら展開する主旋律は日々の暮らしにも似ているわ。…時間軸の限られた範囲にのみ存在するという意味でも人の一生、人生に似ているの。そして、同じ譜面を予定調和のように繰り返しているように見えても、『同じ演奏』は存在しないの。」

 「そうか…」


 「ほら、おじさま。次の演目がはじまるわ。」

ミヤサワ君は目を閉じて、次の演目を楽しんだ。

 《今度は仕事抜きで理恵子サンをコンサートに誘ってみよう。》と、ミヤサワ君は思った。



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