096 5000年、 腑抜けておりました
巨大な幽鬼は生者に苦痛を与えるため、自分の体をベイルフ全体に伸ばして、覆いかぶさった。
しかしなかなか、苦痛を与える対象が見つからない。
すでに多くの者が、幽鬼たちの出す瘴気に当てられ、苦しみ虫の息なのだ。
散発的に見当たりはするものの、まずまとまった量が欲しい。
虫の息に苦痛を与えたところで、微々たるものである。
すぐに死んでしまい、逆に安楽の死を与えるようなものではないか。
それでは、ベイルフ全体に覆いかぶさった意味がないのである。
さて、どうしたものかと言うように、体をねじっていると。
あった――
居るではないか。
幽鬼は街の中央で、格別に生き生きとした者どもが、みっちりと詰まる場所を探り当てた。
中核都市ベイルフの、中央に位置するツシェル城には、持ち場を離れて集まってきたダークエルフ兵がごった返していた。
それを城の上層にあるテラスで、苦々しく見つめる者がいる。
領主のハンレ・ジョーク・ウットだ。
「どいつもこいつも、この五〇〇〇年。
平和だったために、腑抜けになりおって……」
「ウット様、退避を……しかし転移は危険でございます。
ゆえに、地下通路をお使いください」
側近から耳打ちされたウットは、その者を睨み付ける。
「ばか者、頃合いを考えろ。
領主がさっさと逃げて、それが中央に知られた場合どうするのだ?
お前には統治能力が無いなどと、難癖をつけられて、領地が取り上げられるではないか」
「しかしっ……」
「分かっている。
だがな、こういう時こそちゃんと武勇を作っておかないと、後々の政に差し障るのだ。
形だけでよい。
ある程度、城内に損害が出たら私も逃げる。
ギリギリまで粘り交戦し、やむなく撤退という筋が欲しい。
つまりだな――」
ウットがとうとうと自説を述べていると、ふと足元が陰る。
何事かと見上げれば、空一面に黒い幕が広がっていくのを見た。
みるみるうちに、ベイルフ全体に覆いかぶさっていく。
照りつける陽光が遮られ、辺りは夜のようになった。
「なんだ……これは?」
「分かりませんっ、とにかく城内へっ」
側近の言葉に従い、テラスから部屋へ戻ろうとしたウットの顔に、髪のように細い糸が触れた。
「?」
ウットが手でふり払おうとすると、手に絡みついてくる。
「なんだこれは!?」
ウットが再度ふり払おうとした時、糸が腕に入り込み、中に通る神経に絡みつく。
糸はその腹で、神経をこすり始めた。
ウットの腕に激痛が走る。
骨にそって熱い鉄串を、突き刺されたような痛みだ。
「ふぐうううっ」
その痛みが腕を伝って、胸元へ上がってくる。
あまりの痛みで、呼吸もできない。
ウットだけでなく、側近や周りの従者たちも苦しみもがき、声も出せずにいた。
ショック死するほどの痛みなのに、何故か死ぬことも、気絶することも出来ない。
ウットたちを苦しませるその糸は、天空から無数に垂れ下がり、ツシェル城にいる全ての者へ絡みついていた。
良い狩場を見付けた幽鬼は、触手で集めた苦痛を、負のエネルギーへと変換する。
幽鬼は細い触手とは別に、二本の太い触腕をのばし、その先をそれぞれ四足獣スケルトンの首に巻き付けた。
精製した負のエネルギーを、惜しみなく二体へ流し込む。
眼球のない二体の眼窩に赤い火が灯り、四足獣の動きが更に加速する。
*
千里眼たちを担いで、ベイルフの外へ出た霧乃たちが途方に暮れていた。
盆地を囲む山々の火が、盛大に燃え広がっているのだ。
豆福の顔が青くなり、涙ぐんでいる。
もう怒り疲れて、大人しくなっていた。
霧乃の肩に、顔をうずめている。
豆福を抱きながら、霧乃が苛立っていた。
「どうする、うーなぎっ!?
こんなの、あたしたちだけじゃ、むりっ」
「あいつら、早くおわれっ」
夕凪も腕をくみ、苛立っている。
がしゃたちの協力がないと、山火事のダメージコントロールは難しいだろう。
今はトリクミが終わるのを、待つしかなかった。
「ええ……そんな……」
二人のやり取りを聞いていたクローサが、愕然としてつぶやく。
座り込むクローサの膝元には、パーナとヤークトが横たわっている。
脱出できたことで緊張の糸が切れたのだろう、二人は崩れるように気を失っていた。
コールカインで無理やり動かしていた体が、限界に来たのだ。
ただクローサには、二人が緊張を緩めたことが信じられなかった。
クローサは周りを見る。
周りには無数のアンデッドたちが、十メートル程の間を開けて、取り囲んでいるのだった。
クローサはそれも恐ろしいのだが、目の前の子供たちを見る。
アンデッドたちが距離を開けて近付かないのは、霧乃たちを恐れているからだ。
クローサも角つきの大きなスケルトンから、子供たちが降りてくるのを、パーナたちと共に見ていた。
そこから想像するに、この子たちは北に居るという、魔女に関係しているのだろう。そうクローサは推測する。
クローサは巨大アンデッドたちが戦う轟音のなかで、一切のやり取りが聞こえなかった。
パーナとヤークトは、クローサに何も言わず気絶してしまったし、子供たちもクローサに何の説明もしてくれない。
だから想像するしかない。
――それにしても
クローサは目の前の子供たちが、ベイルフの住人を一切心配せずに、山火事ばかり心配しているのが信じられなかった。
――人が沢山死んでいるのに、何で火事のことなんか気にしているのっ
クローサは、そこに苛立ちを覚える。
いや、そもそもあの巨大アンデッドや、無数のアンデッドを、けしかけたのはコイツらではないのか?
どうして今まで、忘れていたのだ?
きっとパーナとヤークトが、感極まったように泣き出して、あの子にひれ伏したからだ。
クローサはそう考え、二人の安心しきった寝顔をみて、怒りがこみ上げてくる。
クローサは奥歯をかみ、憎しみの眼で夕凪を見つめた。
もう一度、ベイルフを見る。
あの中には多くの仲間たちが、まだ取り残されているのだ。
「ああっ、ベイルフが……ベイルフがああっ」
クローサは両手で顔を覆い、絶望した。
「えっ、ここベイルフって、言うんですか!?」
突然、クローサに話しかけてくる者がいた。
チヒロラだ。
クローサは、怯えながらうなずく。
するとチヒロラが、目をまん丸くして叫んだ。
「わーっ、大変ですっ、ここベイルフですーっ!」
「ん? チロどうした?」
夕凪が振り返る。
「大変ですっ、ここにキキュールさんが、いるんですっ!
早く助けないと、粉になっちゃいますーっ!」




