009
「キャンプで焼くのは肉と野菜とマシュマロだけにしろよな」
一体、これは何の臭いだろうか? 食堂の正面の広場だった場所に立ちながら誠は鼻を鳴らす。悪臭と言うに相応しい臭いの正体は、髪の毛が燃える臭いだと創志が応えた。人間と言う脂身たっぷりの肉が焼けた為、若干香ばしくもある。
爆発が起こった食堂前の広場は昼間の惨劇にも劣らぬ死臭を撒き散らしている。
風紀委員の愛望が調べた顛末はこうだ。人畜動物園の二年生の生徒が焚き火を始めた。理由はわからない。本人に聴くことが不可能だからだ。兎に角、教科書や机、工作室にあった木工材料を燃やし始めたのが始まりだ。燃え盛る炎に興奮したのか、隠し持っていた酒類で酔ったのかしらないが、次々と物がくべられて生き、巨大なキャンプファイヤーが出来上がる。そして、炎に釣られて生徒が集まり、誰かがもっと火の勢いを強めようと言い出した。結果、食堂の調理用の小型ガスボンベが投げ入れられた。キャンプファイヤーの中で温められたガスボンベは暫く立ってから爆発し、キャンプファイヤーも、広場の煉瓦も吹き飛ばし、周囲の人間を巻き込んだ。
怪我人がどれだけいて、死人がどれだけ出たのか、今踏みつけた眼球が誰の物か、それもわからない。僅かな月明かりと、キャンプファイヤーの残り火、そして緊急時用の懐中電灯では、太陽が落ちた完全なる夜の暗闇を照らすにはまだ足りないらしい。
「凄いなぁ。馬鹿と無知が合わさるとこうなるのか」
流石の創志もこんな典型的な『爆発事故』を見たことがないらしく、表情に笑顔はない。
少なくとも怪我人が重軽傷合わせて三十二人、死者が十八人。点呼が取れない人間が彼等を除いて二十三人。ここが現代日本だったらマスコミが押し寄せているだろう。調べる手段もないが、こんな事故は彼等が産まれてから一度も起きてはいないだろう。
「どうする、進。こんなに暗くちゃ作業にならないぜ?」
何時もは明るい体育委員長の最上深夜が重々しい口調で言った。進と同じくサッカー部の特別待遇生徒である深夜は、引き連れて来たサッカー部の部員達を背中に従えてうんざりした表情をしている。誰だって、そうなるだろう。
「回収は、明日だ。探索に参加しない男子に回収と整備をやらせる。監督役は深夜に頼む」
「それよりも、この件をどう収拾付ける? 馬鹿のやったこと、で終わらせるには悲惨過ぎる」
「怪我人の処置も必要ですよね。火傷や骨折している人が多過ぎます。取り敢えず、食堂に運び入れましたけど、適切な治療方法は図書館で調べないと……」
全員が頭の痛い表情をし、暗闇の中で特学科の連中に対する今後の対応を意見する。元々、素行不良だった連中だ。処分はどれだけ必要なのか? そもそも主犯格は全員吹き飛んでしまっている。責任の所在は? 再発防止策は? 一つの事件が無数の問題を呼び、時間はどれだけあっても足りはしない。
しかし彼等が真っ先に考えることは、事件の責任者を探し出すことでも、二度とこの痛ましい事件が起きない様に祈ることでもなかった。
真っ先に、その場から離れるべきだった。
考えれば直ぐにわかることだ。
音速で膨張した空気が巻き起こす爆音と爆風。急激に燃え広がる煌々とした爆炎。多くの者はそれに驚き、恐れ慄き逃げ出すに違いない。が、誠達がそうであるように、異変とあれば現状を確認しようとする者も当然出て来る。その警戒心と好奇心が混じった行動は、決して人間だけのものではない。サバンナでは夜間に絶対に火を焚かないと言う。猛獣を引き寄せるからだ。
そこから、こんがりと焼けた肉の臭いがするのであれば、尚更だ。
「っ!」
真っ先にそれに気がついたのは、当然と言うべきか誠だった。この中で最も戦闘行為に長けた男であり、命のやり取りを経験したことがある戦士としての勘が何かを訴えた。その正体はわからない。しかし、確実に危険だと叫んでいる。
誠は咄嗟に話し合いにも参加せずにぼーっと隣で立っていた弓狩の襟首を掴み、「創志!」親友の名を叫びながら地面を蹴って後ろへと跳躍する。
結果的に、その判断は正解だった。
ただ事ではないと悟った創志が殆ど転がるようにその場から離れた瞬間、鋭い風切音と共に倶風が巻き起こり、砕けたレンガや、焼け焦げた肉片を撒き散らしながら、何かが荒れ果てた食堂広場に舞い降りた。いや、落下したと言うべきか、はたまた蹂躙したと言うべきか。それほどまでに、印象的にも物理的にも全てを吹き飛ばす圧倒的な登場であった。
突然の誠の奇行に目を丸くしていた委員長部長連盟とサッカー部三年生はその余波で車に撥ねられた様に吹き飛んでいく。暗闇の中、誠の眼にはその様子が嫌にゆっくりと見えた。悲鳴すら上げられない一瞬の衝撃。そして重く沈殿するような沈黙。
その中心で月光に照らされるは、一対の翼を持つ巨大な一頭の獣。誠が見上げる程に高い位置にあるのは、狼を思わせる鋭いイメージを与える頭部。それを支える首は細いながらもしなやかにして強靭。針金のような短い体毛に覆われた身体を支えるのは逞しい足と、全長と変わらぬ長い尻尾。
誠の知識で端的にその姿を表すなら、ワイバーンが相応しい。勿論、それは空想の生き物の名前だ。自らの権威を示すための紋章の絵柄として好まれる幻想生物である。つまり、破壊と暴力を従える自らの強大さの象徴であり、その為だけにワイバーンは創造されており、見る者に根源的な畏怖を抱かせる強者としてのシンボルである。
そして目の前に突如とした現れた怪物は、まさにそのままの存在だった。ただ着陸をしただけで、十数人を超える人間がゴミクズの様に宙を舞い、難を逃れたはずの弓狩はその捕食者としての完成された姿に腰を抜かし、震える指先で誠の巨大なズボンの裾を頼りなく掴む。
「離せ、弓狩。邪魔だ」
台詞とは裏腹に、誠は自ら前に進むことでその手を強引に振り解く。念のために持って来ていた木刀の柄を握り直し、その口元に笑みを張りつける。少しも笑っていない目線は、薄暗がりで唸り声を上げるワイバーンを射抜く。
「創志! 生きてるか!」
サッカー部員の一人が、ワイバーンの長い足で踏み付けられ、苦悶の呻き声を上げているのを見据えながら、誠は親友の名を呼んだ。彼には悪いが、太い爪で腹を抉られているのが創志でなくて良かったと安堵する。
ただ、だからと言って次の瞬間に彼と同じ立場になっていないとも限らない。誠がワイバーンを脅威と判断して身構えているように、ワイバーンもまた誠のことをその双眸でしっかりと見つめていた。昼間の怪鳥とはレベルの違う知性と強かさを、闇に浮かぶ猛禽類のような瞳は湛えていた。
「なんとかね!」
それを証明するように、ワイバーンは大声を上げる創志の方を見ることもなければ、比較的近くで転がる楓や愛望にも興味を示さない。自分よりも遥かに小さな存在を相手を明確に脅威だと判断し、警戒していることがわかる。
「そうか。だったら、取り敢えず屋内に逃げろ」
「言われなくても!」
半ば確信していた友人の健在に安堵する誠。が。まだ何も事態は好転していない。気を抜くことなく木刀を左手だけで構えたまま、ジリジリと間合いを詰めていく。ワイバーンと言う強敵を相手に両手の自由を失うのは愚策。真剣よりも遥かに軽い木刀を操るのであれば、左手一本で十分であった。
誠が臨戦態勢にあることを察し、創志は後退しながら周囲に呼び掛ける。
「他の皆も! 動ける奴は散るんだ! 背中は見せるな! 目を逸らすな! あと、動けない奴は、隣の友達が喰われることを祈って!」
熊相手の逃走方法が役に立つかはわからないが、後半の台詞は人間達に効果的だった。武道場に並べた『死』の恐怖が心と体を突き動かす。荒い息遣いと、見捨てないでくれと叫ぶ怪我人の声が夜の闇に溶けていく。
「さて、一人分で我慢してくれれば良いんだが」
足の動く者達が必死でワイバーンから離れゆく中、誠は更に間合いを詰める。一番嬉しい展開は、足蹴にしているサッカー部員一人をお持ち帰りしてくれること。彼には悪いが、好きなうまい棒の味も知らない人間なら悲しみも少ない。なんなら、もう二人くらい持って行ってくれても問題はない。
逆に最悪なパターンは、目の前の怪物が欲を出した場合だ。元の世界での常識で考えれば、野生動物が必要以上に狩りを行うことは珍しい。得物を見つけ、全力で走り、時に闘って食料を得ると言うのは大量のエネルギーを消費する。しかも、成功するとは限らない。無駄に消耗する位であれば、寝てエネルギーを無駄にしない方が長い目で見て得になる場合が多いからだ。それに人間と違って保存手段に乏しい野生動物が必要以上に得物を狩った所で、貴重な食料を腐らせてしまうだけだろう。
この巨大なワイバーンの場合はどれだけの餌を必要とするだろうか? 例えば、ネズミの様な小さな生物であれば、体重の半分近い量の食事を一日に必要とするが、体重二〇〇キロを超えるライオンは一割にも満たない食事量しか動物園では与えられていない。これは体積が増えれば増えるほど、エネルギーを蓄えることは容易になるからだ。コップのお湯と、風呂桶のお湯、どちらが冷めやすいかを考えればわかりやすい。
目の前のワイバーンは人間を容易に見下す巨体を持っているので、ライオン以上に喰うだろう。が、それでも人間の一人二人と言うのは、普通に考えれば一度の狩りの得物としては十分な量だ。おまけに、空を飛ぶと言う特性上、あまり体重を増やすことを良しとするとは思えない。翼を広げると優に一メートルを超えるオオタカでも、その体重は一キロ程度しかないのだ。
普通に考えれば、これ以上襲って来るとは考えにくい。特にワイバーンが誠を警戒している以上、争ってまで餌を取ろうとは思わない筈だ。そう、普通なら。笑えるほどに滑稽な言葉だ。今日一日の間で起きたことの何処に普通があっただろうか? そもそも、むこうにいた時から誠の運命は『普通』と無縁だった。
来る!
誠は視界の内に生まれた僅かな違和感を頼りにしてその場でしゃがむ。次の瞬間、轟く風と音を伴い、ワイバーンの長い尻尾が誠の頭上を通り過ぎていくのを感じる。ワイバーンの尾には毒があると言うが、こいつはどうだろうか? そんな疑問を抱く間もなく素早く膝を伸ばして立ち上がり、返す刀で向かって来た尾っぽの一撃を木刀で受け流す――いや、斬り流す。
誠の刀に曖昧な『切れ味』は存在しない。『斬れる』『斬れない』の二択ですらない。剣道の防具であれ、頭蓋骨であれ、熊の腕であれ、問答無用で斬り飛ばす。女子のウエスト程はあろうかと言う尾は、木刀に触れるなり刺々しい毛皮も、その下に隠れた皮膚も、軽量化の為にスカスカになった骨をも両断して見せた。
「っぐ!?」
が、敵はワイバーン。未知の森に住む飛竜。その衝撃は戯れで潰した暴走族が跨るナナハンの比ではない。尻尾こそ切り離して見せたが、その勢いまで殺せなかった。木刀に伝わる衝撃は逃がしきれず、肘が曲がって胸を打つ。足は踏ん張り切れずに浮き上がり、一〇〇キロを超える巨体が浮いて吹き飛ぶ。
幾ら超重量級の体格を誇る誠であれども、それは所詮人間の範疇を出ない。小屋の様な巨躯から繰り出される遠心力たっぷりの尾の鞭と正面からぶつかり合うには、誠の身体は小さ過ぎるのだ。
だが、無様に地面を転がるようなことはない。何とか左足から着地すると、態勢を整えながら更に二歩三歩と勢いを殺しながら距離を取る。想像以上の力に驚きはしたし、未だに腕は少し痺れが残り呼吸は苦しいが、命には程遠い。
「誠君!」
堪らずに弓狩が叫ぶのが聴こえる。
「弓狩ちゃんも逃げるよ。誠ちゃんが足止めしている内にさ」
それに伴って、どうやら立てない弓狩のフォローに回ったらしい創志の声も。自分では他人は見捨てるようなことを言っておいて、なんだかんだ面倒見の良い奴である。まあ『誠と浅からぬ縁があるようだから、後々の人間関係を考えて取り敢えず助けておこう』という政治的な判断かもしれないが。
何にせよ、誠は周囲の悲鳴や些細な変化を見逃さずに受信できていることに、自分がまだ集中しているのだと確信を持つ。誠に取っての集中とは、一箇所に注目することではない。自分自身の感覚を研ぎ澄まし、世界に目を向けることだ。
だから、
「ふっ」
薄暗闇の中でもワイバーンの攻撃をかわすことができる。その巨体を使った体当たりと、鋭い牙を使った噛みつきが誠を五月雨の様に襲うが、その全てを誠は難なく捌いてみせる。と、同時に反撃も確実に刻んで行く。
結局の所、最初の攻防で尾を半ばから落としたのが決まり手だった。あれだけ長い尻尾を失ったワイバーンの動きは精彩に欠ける。バランスは大きく崩れ、その動きは隙だらけだ。
それに加えて、誠の殺傷能力の異常さがある。どれだけ鋭い刃でも『ぶつければ斬れる』と言う物ではない。ノコギリを使う時が最もわかりやすいと思うが、刃物と言うのは『引く』必要がある。その『引く』には技術が必要であり、タイミングや斬れやすい場所を見極める経験が必要となる。
が、誠は触れただけで『斬る』。体重が乗っていない刃でも、誠の持つ木刀が触れられたが最後、その箇所は容赦なく鋭い切れ味が襲う。時も場所も選ぶことなく、誠の刃は問答無用で切断を強制する。仮に誠の能力を持った刃物があれば、それを納める鞘は存在しないだろう。
つまり、木刀で受ければ、そのままそれは相手から斬られに来てくれるようなもの。特別に攻撃に意識を割かずとも、相手は勝手に傷ついていく。誠自身が隙を見つけて攻勢に出れば、被害は更に広がる。
傷を負い過ぎ、逃げることも叶わなくなったワイバーンの攻撃に当初の勢いはない。目の前の脅威である誠を排除する以外に生き残る術はないのだが、何よりもそれが難しい。最初こそ危なげがあった物の、終わって見れば終始誠が優勢でこの戦いは幕を閉じることになるだろう。
途中、巻き込まれて何人かの生徒が轢かれたが、それも必要経費と言うことにしておくしかあるまい。勝てば官軍。勝利は大抵の失敗を有耶無耶にしてくれる。まあ、それが次の敗因になることが世の常だが。
しかしこの場に置いての決着は、一先ず誠の物だろう。
「GAWAAAAAAAAAAA!!」
まるでこの世を呪うが如く化物は雄叫びを上げるが、それは虚勢。すでに身体中に無数の切り傷が走り、自慢の尻尾は半ばで千切れ、空を舞う為の翼には大きな穴が空いている。最早この戦いに勝利した所で、野生の中を生きていくのは難しいだろう。
その事実を誤魔化すように、涎とも胃酸とも思えるものを撒き散らしながらワイバーンは咆哮と共に襲い来る。が、既にその瞳の焦点はあっておらず、足元も覚束ない。誠が木刀を構えることもなく大きく後ろに下がって鋭い牙による噛み付きを避けると、飛竜は完全に身体の制御を失い、その場に倒れた。
「うわ。凄い地味に決着したね」
痙攣し、血を吐くワイバーンを遠目に観察しながら創志があっけない幕切れに文句を付ける。その足元に弓狩の姿はない。どうやら、余計な連中を食堂に避難させた後、鉈の様に分厚いナイフを片手に助けに来てくれたようだ。こう言った、形だけでも助けに来たアピールをしてくれる辺り、友情甲斐のある奴である。次も仕方ないから助けてやろう。そんな優しい心が芽生える。
「必殺技の名前でも叫べば良かったか?」
「最低でも、剣先からビームを飛ばして欲しいね」
高過ぎる最低ラインだった。
「刀から何かを飛ばすの俺の美学に反する」
戯言に肩を竦めて応えて、誠は倒れ伏したワイバーンの首へと近づく。どんな隠し玉があるかわかった物ではない。大事を取って首を刎ね飛ばしておこうと言う算段だ。断っておくが、別に首を刎ねるのが好きなわけではない。確実だからだ。同じように口があり、声を出し、呼吸をしているのだから、首を落とせば間違いなく死ぬはずだ。創志が近寄って来ないのも、まだ何が起きるかわからないと警戒しているのだろう。
実際、その警戒心は正しかった。
トドメを刺そうと木刀を振り上げた瞬間、誠は「ばさ」「ばさ」と翼が空気を打つ音を聞いた。集中状態であるから何とか感じ取ることが出来たその音に表を上げれば、見たこともない星が並ぶ夜空の中心に浮かぶまんまるい月を背中に、一匹の飛龍がそこにいた。逆光で詳細はわからないが、一つだけ言えることがある。
その頭部に映える雄々しき二本角だ。地に伏せるワイバーンにはない、まるで三日月のような鋭いデザインのソレは、雄々しいの言葉通りにワイバーンの雌雄を表しているのだろう。ならば、今まで相手をしていたワイバーンは雌だろうか?
雄と雌。番のワイバーン。
あの狂ったような叫び声は、怒りや恐怖からではなく、自らの連れ添いを呼ぶ為の物だった?
何故、呼ぶ? 自分が敵わない強敵を相手に、どうして人生の伴侶を呼ぶ?
決まっている。眼の前の強敵よりも、より強いと言う確信を持って、助けを呼んだのだ。
「BAWOOOOOOOOOOOO!!!」
雄のワイバーンがけたたましい叫び声を上げる。音が空気の振動によって起こっている現象だと嫌でも理解せざるを得ない爆音。遥か上空にいながらにして、地上を支配するような強力な圧力は、ガラスをガタガタと揺らし、創志をしても思わず耳を塞いでしまうような激しく荒々しい力に満ちていた。その原動力は、自らの遺伝子を残す為に選んだ伴侶を痛めつけられたことに対する怒りか?
「…………」
その埒外の迫力に、誠は思わず唾を飲む。
そして、ぽつりと呟く。
「まいった。アレは勝てねえ」




