第8話:上限突破(バフ)という異常
奈落の狼が塵へと砕け散った静寂がまだ耳の奥に残り、粉塵がゆっくりと沈んでいく白い揺らぎだけが岩肌の上に漂い続け、さっきまで死を目前にしていた現実が嘘のように静まり返り、体の奥底に残っていた恐怖が遅れて溶けていくように消えていった。
その静けさは不気味なほど深く、岩壁の奥から響く低い唸りのような振動だけが空気を揺らし、奈落の奥に潜む何かがまだこちらを見ているような感覚が背筋を撫で続けていた。
死の恐怖を越えた直後の静けさは、むしろ次の危機を予感させるほど重く、体の奥底に残った緊張が完全に抜けることはなかった。
脳内に響いたシステム音の余韻がまだ消えず、【神の采配】という力が本当に現実のものなのだと理解させられ、触れた瞬間にステータスをゼロへ書き換えるという異常な能力が自分の中に存在しているという事実が、恐怖よりも重い現実として胸の奥に沈んでいた。
だが同時に、脳内に流れ込んだもう一つの理解があった。
ステータスを上限突破させることができるという、ゼロとは逆の力。
それが本当に使えるのか確かめる必要があった。
奈落の狼を消し飛ばした力が偶然ではなく、再現可能なものなのか。
その確認は、この先の奈落で生き残るために絶対に必要だった。
視線は自然と足元へ向いた。
岩肌の上に立つ自分のスニーカー。
擦り切れた布地、汚れたソール、何度も配信で使い潰してきた安物の靴。
これに触れればどうなるのか。
試すなら今しかない。
奈落の奥に何が潜んでいるか分からない以上、力の性質を理解しないまま進むのは自殺行為だった。
死の恐怖を越えた直後の静けさが、逆に決断を後押ししていた。
しゃがみ込み、スニーカーのつま先へ指先を伸ばした。
触れた瞬間、脳内に再び電子的なシステム音が響き、外界の音とは明らかに異なる規則的な響きが頭の奥で直接鳴り、視界の中心に文字が浮かび上がるような感覚が走った。
その感覚は奈落の狼に触れた時と同じでありながら、どこか違う熱を帯びていた。
【対象:スニーカー】
【上限突破——適用】
その文字が脳内に直接響き渡り、スニーカーのステータスが限界を超えて上昇するという理解が本能として流れ込み、布地の繊維がわずかに光を帯び、ソールの形状が微細に変化し、まるで靴そのものが別の素材へと変質していくような感覚が指先から腕へ、そして全身へと伝わっていった。
スニーカーはただの靴ではなく、異常な性能を持つ何かへと変わり始めていた。
視聴者数は200に増えていた。
画面の下部が白い文字で埋まり続け、コメント欄が困惑と混乱で揺れ続けていた。
「何ブツブツ言ってんだこの男」
「まだ生きてるの草」
「靴触って何してんだ?」
「ウルフ倒した後に靴いじるの意味不明すぎる」
視聴者たちは状況を理解できず、ただ靴に何かしているという事実だけを捉えて混乱し続け、画面越しに押し寄せるその反応が、さっきまで死を目前にしていた現実との落差をさらに強調し、暗闇の岩肌エリアの静けさと対照的に画面だけが騒がしく揺れ続けていた。
その熱量は、奈落の狼が塵へと砕け散った瞬間の静けさを逆に不気味なほど鮮明に思い出させ、今触れているスニーカーがどれほど異常なものへ変質しているのかを強く意識させた。
布地の繊維がわずかに光を帯び続け、ソールの形状が微細に変化し、まるで靴そのものが奈落の地形に適応するための進化をしているように見えた。
上限突破は本物だった。
触れたものを限界以上へ引き上げるという異常な力が、確かに自分の中に存在していた。
奈落の狼をゼロにした力と同じく、これは奈落の奥で生き残るための唯一の希望だった。
暗闇の岩肌エリアの奥から、再び低い唸りが響いた。
奈落はまだ牙を剥いていないだけで、次の瞬間に何が現れるのか分からない。
だが今の自分は、さっきまでとは違う。
【神の采配】は本当に神の権能だった。
そしてその力が、次の一歩を踏み出す理由になっていた。
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