第九十話 災厄の魔女
覚悟は決めたはずだった。
だが、振り上げた手はどれだけ力を入れても動かず、結局、最後には子供のように泣きじゃくることしか出来なかった。
分かっていた。
自分がこの子を殺すことなんて、出来るはずがなかったのだ。
……ごめんね、お母さん。
私、ようやく分かったよ。
自分の大切な人を殺すだなんて。
そんなこと出来るはずがなかった。
きっと、母も今の自分と同じように悩んだのだろう。
その苦しみが如何ほどのものであったのか。
ここに来てようやく分かるだなんて。
何もかもが遅すぎた。
振り上げたナイフを下ろし、天を仰ぐ。
その時、誰かがすごい力で自分を突き飛ばした。
突然、見舞われた暴力にしかし、サフィには抵抗する気力さえなくなっていた。
いつの間にか降り出した雨が地面を濡らし、そこに転がるサフィの服を泥まみれにした。
もう、どうでもいい。
そんな諦観がサフィの中に生じていた。
結局、何もかもが無駄だったのだ。
母の代わりに役目を果たそうだなんて義憤に駆られ、その挙句がこのざまだ。
自分には何一つ成し得ないのだという事実が、サフィから再び立ち上がる気力を奪って行く。
「サフィ……」
どこからかアイナの声が聞こえ、『そういえば、誰が私を突き飛ばしたのだろう?』という疑問が頭に浮かんだ。
サフィは突っ伏していた体を起こすと、アイナの方を見た。そこには恐ろしい顔でこちらを睨みつけるナッシュの姿があった。
「これは……、どういうことだ!?」
冷たく、暗い声だった。
初めて向けられたナッシュの怒り、そして不安そうにこちらを見つめるアイナの顔に、耐え難い恐怖を覚えたサフィは気が付けばその場から逃げ出していた。
……こんなことになるのなら、外の世界になんて来るんじゃなかった。
大変だった旅の思い出も、仲間との出会いも、そのすべてが後悔に塗り潰されて行った。
※
魔法で限界まで身体能力を強化し、更に風魔法を使って林の中を一気に駆け抜けたナッシュが目にしたのは、今まさに殺されようとしているアイナの姿だった。
サフィがアイナを殺そうとしてる。
ラピスから聞いたその話をすべて鵜呑みにしたわけではなかったし、仮にそうだとしても何か理由があるはずだと思っていた。
だが、いざその現場を目的した瞬間、冷静に物事を考える余裕などなくなっていた。
林を突き抜けて来た勢いのまま、ナッシュはサフィを突き飛ばした。
雨で地面がぬかるんでいたとはいえ、骨の一本くらいは折れたかもしれない。
それくらいサフィは盛大に吹き飛んで行った。
「ナッシュ、さん?」こちらを見上げるアイナの顔はひどく困惑していた。
「アイナ、怪我はないか?」
「は、はい。それより、サフィはどうしてこんな……?」アイナが泣きそうな顔でサフィを見る。「サフィ……」
その声に反応するように、サフィがよろよろと体を起こした。
「これは……、どういうことだ!? サフィ‼」
冷静に訊こうとしたつもりだった。
だが、抑え切れない怒りが声になって吐き出された。
「何で、お前がアイナを殺そうとしてんだよ‼」
睨みつけるナッシュに対し、サフィは怯える様な表情を浮かべた。
「ご……、ごめ、……ごめん、な、さい」震えながらサフィが謝罪を口にする。
それを見たアイナが、「ナッシュさん、待って下さい」と言った。
「私に、話をさせて下さい」
「いや、しかし……」
「お願いします」
アイナに懇願されたナッシュは、「分かった」と嘆息混じりに答える。
「ありがとうござます」アイナは言うと、サフィの方に目を向ける。「サフィ、事情を話して。私にはその権利があるはずよ」
「そ、それは……」
「何か理由があったんでしょ? お願い。私は、あなたの力になりたいの」
その言葉を聞いて、サフィが両手で顔を覆った。
「どうしてあなたなの? あなたが――」
『――災厄の魔女、なの?』
土砂降りの雨の中、三人の耳にはっきりとそんな声が聞こえて来た。




