第八十五話 よく分からないけど
力を解き放ったディグラの最初の餌食となったのはエレノアだった。
全身から殺意を発散しながら一歩、二歩と進んだディグラは、次の三歩目で50M以上離れていたエレノアに肉薄していた。
「ひっ!」
そう声を漏らしたエレノアの口をディグラの右手が塞ぐ。すると、糸が切れた人形のようにエレノアが膝から崩れ落ちた。
「エレノア!」
完全にディグラの姿を見失っていたハンザの慌てふためく声が聞こえた。
だが、彼が二言目を発することはなかった。
ハンザがエレノアの方を振り向いた時には、すでにディグラが彼の背後に居た。
背中に一撃。
ディグラの拳が突き刺さる。
エレノアと同様に、たったの一撃でハンザの意識が刈り取られた。
「ちょっ! な、何だよ、あれ!? あんなの反則じゃん!」
半泣きになりながら、ラピスはディグラの死角になる方へと移動する。
その時だった。
ディグラの体のあちこちに眼球が浮かび上がり、その一つと完全に目が合った。
――あ、これダメな奴。
口中でそう呟き、ラピスが逃れられない死を感じた時には、ディグラの白針が眼前に迫っていた。
「足を止めるな!」
そんな声が聞こえ、誰かに突き飛ばされたラピスが顔を上げると、白針に肩を貫かれたステインが立っていた。
「お、おじさん!」
悲鳴を上げたラピスに、「大丈夫だ」とステインが答える。
「それよりお前はもう逃げろ」
「え?」
「ここは俺たちが何とかする」
「な、何とかって。どうするのさ!?」
あんな化物、どうやったって勝てる気がしない。
「大丈夫だ。あと少し……、あと少しで決着がつく」
何かを確信するかのようなステインの口振りにラピスはぎゅっと唇を噛み締める。今まで何度も繰り返して来た裏切り。そこに罪悪感を覚えたことなど一度もなかった。
それなのに今はどうしても足が動かない。
「早く行けっ!」ステインが殺気混じりの怒声を上げる。
その声に、ラピスの体は反射的に走り出していた。
「……ごめん」
※
ラピスを逃がしたのは英断だった。
眼前で零等級を食い止めているステインを見てナッシュは思った。
ハンザとエレノアが倒された状況では、ラピスの能力を十分に発揮することは難しい。
それなら守るものを少なくした方が、ステインにとっては幾分、戦い易くなるはずだった。
事実、先程からステインの剣がこれまで以上に苛烈なものになっている。力を解放した零等級――ディグラとさえ、互角に渡り合っていた。だが、それが長くは持たないことをナッシュは知っていた。
ステインは、ナッシュがハンザから譲り受けたウズネラによって、ディグラを殲滅するための魔法を完成させる為の時間稼ぎをしていた。
だが、そんなことはディグラも当然、理解している。完成間際となったナッシュの魔法を見て、ディグラの顔つきが変わった。
『ウズネラを使ってくれるのは大歓迎なんだけどね。でも、それでやられるのは御免被りたいんだ』
「何を言っている?」
『何でもないよ。こっちのこと』
ステインの剣を受け止めながらそう言ったディグラの口から無数の白針が乱射される。
予期せぬ至近距離からの攻撃に堪らず後退したステインは、すぐに反撃に出ようとした。
しかし、剣を構えようとしたステインの左腕がだらりと下がったまま動かない。
「……毒か?」ステインが自身の左腕を見ると、髪の毛よりも更に細い針が刺さっていた。
『ご明察。もっともドーラの使う針みたいに強力な毒ではないけどね。でも、それで十分。君の動きをほんの少しだけ制限出来れば、それでね』そう言った瞬間、ディグラがステインの左側に回り込む。
ステインは咄嗟に右手一本で迎撃に出ようとしたが、わずかに反応が遅れた。
それが致命的な差となった。
「ガハッ!?」
ディグラの眼前まで届いていた剣はそこで止まり、代わりにステインの鳩尾にディグラの拳が突き刺さった。
『さて、次は君の番だ』膝を折ったステインからナッシュに視線を移してディグラが言った。
「逃げろ、ナッシュ」
かろうじて意識を残していたステインが声を上げる。その時には、既にディグラの凶針がナッシュの体を貫いていた。
※
今まで数え切れない暴力に晒されて来た。
命の危険を感じたことも一度や二度ではなかった。
自身に向けられる殺意の端緒、それを悉く読み切ることでラピスはこれまで生きながらえて来た。
その感覚はラピスにとって、魔法や精霊使いとしての素養などより遥かに重要なものだった。彼女の卓越した防衛本能は、幼少期の頃から日常的に受けて来た身内からの虐待により育まれ、国の暗部に落とされてからは仲間同士の裏切り合いにより更に研ぎ澄まされることになった。
まだ幼いラピスは戦闘面では、暗部の中でも中の下くらいであり――彼女の年齢を考えれば十分に驚異的なことではあったが――組織内のちょっとしたいざこざでも命を落とす危険性があった。
そんなラピスが、「ヤバくなったら逃げればいい」という結論に至るのはそれほど不思議なことではなかった。今までそれがラピスの生存戦略にもなっていた。
昨日まで同じ釜の飯を食っていた仲間でさえ、自分が危険に晒されたら平気な顔で切り捨る。
そうしなければ自分が死ぬ。
だから、その選択に間違いはないのだとラピスは確信を持っていた。
それなのに……。
『おい、どうした?』
不意に足を止めたラピスにリコリスが尋ねる。
「ねえ、リコリス。やっぱり、僕――」
『戻るのか?』
「うん」
ラピスの返事にリコリスは、『まったく』とため息を吐いた。
『どうして俺の主人になる奴は、どいつもこいつも自分より他人を優先しちまうんだろうな……』
「リコリス?」
『何でもない。それよりいいのか? 戻れば命の保証はない。考え直すなら今だぞ?』
「……ごめん。何か、よく分からないけど、あの人たちを見捨てたら僕はきっと後悔する気がするんだ」
それは、ラピス自身にも理解出来ない感情の吐露だった。
後ろを振り向き、元来た道をじっと見つめるラピスに、『分かったよ』とリコリスが言った。
『だが、分かってるか? 俺とお前との契約は――』
「僕が自分以外を優先すれば、それだけリコリスの力を引き出せなくなる……でしょ?」
『分かっているならいいんだ』
「ごめんね、リコリス」
ラピスが謝ると、リコリスが愉快そうに笑う声が聞こえた。
『いつも、それくらい素直なら可愛げがあるのにな』
「五月蠅いよ」
悪態を付いたラピスは、妙に清々しい顔で元来た道を戻り始めた。




