第七十八話 零等級の顕現
濃白色の靄が人の像を作り出して行く。
その様子をナッシュはじっと見守っていた。
いま攻撃しても無駄であるということは肌で感じていた。それは相手にまだ実体がないからという理由ではない。頭の中で何十、何百と繰り出した魔法がどれも徒労に終わったからだ。
だからこの時ナッシュはすでに頭を切り替えていた。
怪物を倒すのではなく、一分でも長く足止めをする。
それは先程、何千、何万という怪物を屠り去った魔法使いのものとは思えないひどく消極的な思考だった。だが、いま顕現しようとしているのは、紛れもなく零等級。プロントで手も足も出なかったあの怪物と同等の存在だった。
足止めさえも出来るか分からない。
それでもやらなくてはならない。
今ここに居るのは自分だけなのだから。
やがて、靄が質量を持ち、完全な怪物となって姿を現す。
『――やあ、お待たせ』
まるで旧知の友人に話し掛けるような気軽さでその怪物は言った。
発するその声にさえ耳を塞ぎたくなるような悪意が感じられ、ナッシュは構えていた杖を強く握った。
それを見て、怪物が思いがけないことを口にする
『警戒しなくてもいいよ。君に危害を加えるつもりはないから』
「何?」
『君は彼女をおびき寄せるための餌だからね。ただ、そうして怯えているだけでいい』
「怪物が! 嘗めているのか!?」
『まさか。君は僕にとってとても大切な存在だ。君が居るから彼女はここまでやって来てくれる。だから――』
最後まで言い終わる前に怪物の首が霧散する。
ナッシュの構えた杖の先では、小さな紫電がバチバチと音を立ていた。
文字通り、電光石火の攻撃だった。
それさえも無意味であると、ナッシュはすぐに思い知った。
『――ひどいな? まだ人がしゃべっている途中だというのに』首のない怪物の体から声が聞こえた。
やはり、この程度では死なないか。
血液のように気味の悪い液体を吹き出しながら、怪物の首から頭部が生えて来る。
見ているだけで吐き気を催す光景だった。
そして、頭部の再生が終わると怪物は心底面倒くさそうに、「仕方がないなあ」と呟いた。
『少しだけ……、彼女が来るまで遊んで上げよう』
そう言った怪物の目は、まるで家畜でも見ているかのようなだった。
※
持ち場の怪物を倒した後、ハンザは街の西から途轍もない気配が発せられるのを感じた。
「……おい、嘘だろ?」
『残念だが事実じゃ。零等級が現れおった』
契約精霊であるジギリタスが、何かの間違いであって欲しいというハンザの希望をばっさりと斬り落とす。そのこと自体に不満はないが、もう少しこちらの気持ちも汲んで欲しいと思った。
「くそっ、ナッシュ!」
街の西口はナッシュが担当している。彼一人では、到底、この気配を発する怪物に太刀打ち出来ない。
いや、誰が相手でもそれは同じか……。
どこか冷静にそんなことを考えている自分のことを、ハンザは少しだけ嫌になった。
『一丁前に罪悪感を覚えているのかえ?』
「五月蠅いぞ、ジギリタス。余計なことを言う前に、この状況をどうにかする方法を考えろ!」
ハンザの声はいつになく緊迫していた。
こうしている間にも、友人の命が消えようとしているのだ。
その焦燥は、どうあっても取り繕い様がなかった。
「――手を貸しましょうか?」
そこに女の声が聞こえた。
「……どうして、あなたがここに?」
声のした方へとハンザが振り向くと、昨日、アルフレッド邸の前で会った女性が立っていた。黒く美しい髪をたなびかせたその女性は慈しむ様な目でハンザを見つめながら答える。
「あなたの様子を見に来たのよ」
「冗談でしょ?」
「あら、酷いこと言うのね? 半分は本当よ」
「じゃあ、あとの半分は?」
「例のサフィという子を見に来たの」
「定期的に報告はしているでしょう? 彼女はあなたが探している人物ではない」
「ええ、そうね。でも、あの子は、きっと私を導いてくれるはず」
「……だからって、態々、あなたが出てくる必要はありませんよ」
「ごめんなさい。でも、私の宿願があと少しで叶うと思ったら、つい、ね?」まるで少女の様なあどけなさで女性が言う。
「悪いけど、今はあなたの相手をしている余裕はないんだ」
「そのようね。まさか、また奴らが現れるだなんて。しかも今回は誰もウズネラを使っていないというのに。……やはり、それだけ時期が満ちて来たということかしら?」女性はそう言うと、ハンザに向かって手の平に収まるくらいの小瓶を放って寄越した。
その中には光をも吸い込んでしまいそうな漆黒の液体が入っていた。
「これは、ウズネラのオリジナル?どういうつもりですか? まさか、これであの零等級を倒せとでも?」
「そうね。それもいいかもしれないけど、今はそれよりするべきことがあるはずよ?」
――自分の役目を忘れないように。
最後にそう言い残し、女はハンザの前から姿を消した。
渡された小瓶にを握り、「分かっているさ」とハンザが呟く。
そこに、西の方角から馬に乗って誰かがやって来ていた。




