第七十七話 ナッシュの危機
ラピスの報告を受けた後、ナッシュはシャリアンの西へと向かっていた。
その途中では、すでに羽虫のような怪物が発生しており、そのすべてをナッシュは撃墜しながら進み続けた。
五等級に満たない怪物は、訓練された軍人であれば難なく倒すことが出来る。問題は奴らが大量に発生するとアイナが予見をしたということだ。かつて、ナッシュが国境の警備に就いていた時、そこでスタンピードが発生した。その時も、今の様に羽虫のように弱い怪物が大量発生していた。
何故、そのようなことになったのか?
答えは明白だった。怪物たちは自分たちより遥かに強い怪物から逃げていたのだ。
当時、その原因たる怪物をナッシュは一人で葬り去った。今思えば、それは三等級程度の怪物だった。
だが、今回はそんな生易しい相手ではなさそうだった。シャリアンの西にある桟橋、そこに到着した時、対岸からまるで雲霞の如く怪物たちが押し寄せて来ていた。
「……一体、何匹居るんだ?」
いや違う。
問題はあれらが一体何から逃げているのかだ。
瞬く間に無数の怪物たちがナッシュの居る所までやって来る。
だが、ナッシュは一切慌てることなく、紫紺に輝く美しい球体を次々と前方に解き放った。
重力魔力によって凝縮されたそれらの球体は、近くにやって来た怪物を悉く自身の中へと飲み込んで行った。時折、その凶悪な重力から逃れる怪物も居たが、桟橋を渡り切る前にナッシュが放った魔法の光によって焼き尽くされた。
どれくらい時間が経ったのか。ナッシュがひたすら魔法を使い続けていると、視界を覆わんばかりに居た怪物たちは、一匹残らずその場から姿を消していた。その偉業に本来なら両手を上げて歓喜する所だが、今のナッシュにはそんな余裕はどこにもなかった。
怪物たちを消し去った後、いやに静かになったその場所でナッシュは人生三度目となる死の恐怖を体験した。一度目は幼少期の故郷で、二度目は先日のプロントで、そして今日シャリアンに現れたのはこれまで遭遇したどの怪物よりも絶望的だった。
逃げろ! 逃げろ! 逃げろ‼
頭の中から何度もそんな声が聞こえて来た。
だが、そんなことは不可能なのだと目の前の存在が言っていた。
※
ラピスと共にアルフレッド邸に戻ったサフィは、ナッシュにすべてを任せて来たことに罪悪感を覚えていた。
「お姉さん、まだ気にしてるの?」屋敷の入口で足を止めたサフィにラピスが尋ねた。
「ええ」
「仕方ないよ。いくら魔法が使えても、お姉さんは一般人な訳だし。そうでなくても軍に追われているんだから。目立つような行動は控えなくちゃ」
「そうね」と、サフィは頷く。「何だか、あなたの方がお姉さんみたいね」
「え、そう?」満更でもなさそうにラピスが答える。「まあ、そう言うんならもっと頼ってくれてもいいけど?」
ラピスのお気楽な態度に、サフィは少しだけ気が楽になった。
今はナッシュを信じる以外、自分に出来ることはない。
気持ちを切り替えたサフィは、ラピスの案内で屋敷の客室へと向かう。
その扉を開けると、アイナが床に蹲っていた。
「アッ――」
アイナ!
先程のことをまだ引き摺っていたサフィは、思わず上げそうになった声を呑み込む。
だが、アイナはそんなことなどまるで気にしていないようだった。
「……サフィ?」そう言ったアイナの声には、ひどく切迫したものが感じられた。
「……ど、どうしたの? アイナ?」
改めてそう尋ねたサフィにアイナは、「……行かなくちゃ」と言った。
「ナッシュさんを助けに行かなくちゃ!」
額に大粒の汗を浮かべたアイナにサフィは嫌な予感を覚えた。
「落ち着いて、アイナ。何があったのか説明して」
出来るだけ穏やかな口調でサフィが尋ねると、アイナは今しがた視たという二度目の予見について話をした。
「……ナッシュの所にそんな怪物が?」
「うん。だからすぐに助けに行かないと!」
「事情は分かったわ。でも、どうしてあなたがそんな所に行く必要があるの?」
「私が行けば、きっと何とかなるから」
「だから、それはどうして?」
「分からない。でも、さっき予見した時に怪物と目が合って……。多分、あの怪物の目的は、私なんだと思う。だから……」
「怪物があなたを?」
アイナの口振りには、確信に似た何かがあった。そのことにサフィはじわじわと退路を断たれて行くような気にさせられた。望んでもいないのに、怪物とアイナを関連付ける要素が増えて行く。
「……やっぱり、そういうことなのね」どこか諦観したような声でサフィが呟く。「分かったわ。だったら、私があなたを連れて行く」
「えっ!? ちょっと待ってよ、お姉さん! いきなり何を言い出すのさ!?」サフィの隣で話を聞いていたラピスが声を上げる。
「ごめんね、ラピス。……でも、アイナの言っていることは、おそらく本当のことだと思うから」
「いや、何を根拠にそんな……」
ラピスが狼狽えながらそう言うと、どこからか別の声が聞こえて来た。
『行かせてやれよ』
「リコリス? お前まで何言ってんの?」虚空に向かってラピスが苛立った声を上げた。
「精霊?」
そう呟いたアイナに、『ああ、そうだよお嬢さん』と精霊が答える。
『あんたにも俺の声が聞こえるんだな? 俺はリコリス。一応、そこのちんちくりんと契約してる。よろしくな』
「え、ええ。よろしくお願いします?」
「おい、誰がちんちくりんだよ。……って、そうじゃなくて! お前、一体どういうつもりなの!? 何で行かせてやれなんて言うんだよ!?」
『理由なんてねえよ。ただ、サフィって姉ちゃんには、何か心当たりがあるみたいだぜ?』
「え? ……そうなの、お姉さん?」
その問いにサフィは答えず、代わりにアイナの手を取って言う。
「時間がないんでしょ? 急ぎましょう」
「う、うん……」
「ちょ、ちょっとお姉さん!」
「ごめんね、ラピス。でも、私にとっても、これは重要なことだから」
そう答えながら、サフィはここでラピスとの契約を解除しても良いかもしれないと思った。ここまでの旅で、ラピスにサフィを殺害する意思がないことは確信が持てていた。ならば、自分の我儘でラピスまで危険に晒す必要はないだろう。
だが、サフィがそれを伝えるより先にラピスが面倒くさそうな声を上げた。
「ああ、もう分かったよ! まったく仕方がないなあ」
「ラピス?」
「言っとくけど、危険だと思ったら力づくでもお姉さんを連れて逃げるからね?」
「え、ええ。……でも、いいの?」
「全然、よくないよ。だから、後で事情を聞かせてよ」
さっきのことも含めて。
そう言ったラピスに、サフィは何か見透かされているような気がした。
「ええ、分かったわ」
この約束が守られることはきっとないだろう。
胸に小さな痛みを感じながらサフィはそう答えた。




