第8話 銀白色の獅子 ⑦
「わるいゆめをみたの? もう、こわくないよ」
ここはあんぜんだからね。
小さな手が、俺の頭をゆっくりと撫でている。温かなそれに、気持ちが落ち着いていく。不思議なものだ。
俺は本来、人との身体的な接触をあまり好むほうではない。幼いころからその傾向はあったが、それをはっきりと自覚したのは十二になったころ、女性をあてがわれ褥を共にしたときだ。
男とは違う肌の柔さや甘やかな匂いに感心したものの、別段好いとも思わなかった。行為後、添い寝をねだられ従いはしたが寝付けず、女が深く寝入っているのを確認して、夜明け前に寝台を抜け出して部屋を辞してしまった。
相手はそれなりの身分の美しい淑女だったから、選民意識による拒絶ではなかったはずだ。行為にもとくに問題はなかったから、女性を苦手としたわけでもない。もちろん同性を好んだわけでもない。
人に触れられることが、ひどく不快だったのだ。礼儀としてある程度耐えることはできる。だが日常で不意の接触を許せたのは、父や母、昔からの馴染みの使用人たちくらいだった。
この少年は俺の対人距離にするりと入り込んできて、無遠慮に触れてくる。今もずっと、添うように身を寄せて、俺の頭を撫で続けている。それを不快どころかむしろ心地よく感じられるのは、いったいなぜなのだろう。まだ会って間もない相手だというのに。
「ここは、どこだ」
訊ねながら身を起こし、辺りを見回す。見覚えのない部屋だ。俺が寝かされていたのは天蓋つきの寝台。寝具の手触りは上質なそれ。趣味が悪くない程度に凝った文様の壁紙や絨毯。調度も年代物だがよく手入れされ、品が良いものばかりだ。
「父さまの家だよ。えっと、もとは母さまの? フォールクヴァング宮殿。わかる?」
知っている。王家の離宮のひとつだったものだ。
旧世界の神話に登場する建物をイメージしてつくられ、その名を冠した宮殿。現在の王宮を除けば、国内でもっとも豪奢な外観を持つとされるそれは、伯母のアリエノールが降嫁する際の持参金に含まれ、その夫君の手に渡ったと聞いている。
それでは、あの男は。
にこにこと笑いながらこちらを見ている、見事な金髪に翠玉の瞳の少年。その愛らしい顔立ちに、伯母の面影はない。父と呼ぶあの男、伯母婿にも似てはいないが。
「おまえは、アリエノール伯母上の息子なのか?」
俺よりもいくつか年上の子息はいたはずだ。幼いころに会った覚えもある。だがふたり目の子を授かったという話は聞いていなかった。上層階級において、後継者以外の子女が公にされないことはよくあるが、それだろうか。
だが少年は、首を横に振る。
「アリエノール母さまは、兄さまの母さまなの。ぼくは、えーと、父さまのふたりめの奥さんの、エレイン母さまの子」
あの男、伯母だけでなく他にも妻を迎えていたのか。いや上層階級では一夫多妻、多夫一妻が認められている。なにもおかしなことではないのだが。
「おまえたちが当家に来たのはなぜだ」
「母さまが父さまにいったんだよ。えっとね、『あなた。妹と甥が、どうやら不当に屋敷に監禁されているようですの。ちょっと行って保護してきてくださいな。阻む者がいればぶち殺してかまいませんから』……って」
少年が伯母の口調を真似て言う。遠い記憶にある伯母の物言いそのものだ。それまで少年はおっとりとした話し方をしていたから、その豹変に少し驚いた。
そうだ。あの伯母は温厚そうな見かけに反して、そのじつけっこう過激な人だった。みな騙されるが。
伯母にそう言われた伯母婿は、嬉々として当家に乗り込んできたらしい。
『わたくしの名を出しても行く手をふさぐ者がいれば、それはすべて敵だから容赦しなくてよろしい』と補足され、伯母婿は門扉の守衛をはじめ、その歩を止めようとした者たちをことごとく壊しながら押し入ったそうだ。
あの時点で当家のもともとの使用人が、家令の手の者に殺され残っていなかったのは、ある意味幸いだったのかもしれない。
半年前、家令によって父が殺され、俺と母がその監視下に置かれたあと。
家令は父の死を急な病死として通達し、喪中を理由に当家の門扉を閉ざしたらしい。弔問に訪れる人々には家令が屋外で対応し、母と俺は心痛で臥せっていると説明して、邸内への立ち入りを断っていたそうだ。
上層階級の葬儀は内々におこなわれることがよくあり、正真正銘の家令が対応していたこともあって、当家の異変に気付く者はいなかったのだ。伯母以外は。
伯母は母と定期的に文のやりとりをしていたらしい。母は伯母に宛てる手紙を、すべて自筆でしたためていたのだ。いつ如何なる時でも、だ。それが父の死後、よく似た別の筆跡に変わった。そのことに、伯母は気付いたのだ。
母が手紙を書けない状態にあるらしいと察した伯母は、文面に母にだけわかる暗号をそれとなく混ぜ込んだ。なにかわけがあって代筆をさせているのか、そもそも母に手紙が渡っていないのかを探ったのだ。
果たして母からの返信を見た伯母は、後者と判断した。そこで夫君へ俺たちの保護を依頼したと、そういうことだった。
もしも伯母が筆跡のわずかな違いに気づかなければ、夫君に俺たちの保護を依頼し彼らがそれを果たしてくれなければ、あの地獄のような囚われの日々はいまだ続いていたのだろう。一年の喪が明ける、その日まで。
「伯母上と、それから父君にお礼を申し上げたいのだが、お会いできるだろうか」
少年に訊ねると、うーん、と考えるそぶりを見せる。
「父さまは、ちょっといそがしいかも。母さまは、どうかな。きいてくるね」
ちょっとまっててね。
そう言って跳ねるような動作で寝台を下りた少年が、部屋を出て行く。
すぐそばにあったぬくもりが消え、少年の姿が見えなくなったとたん、ひどい心細さを感じた。待て、戻れと叫びたい衝動にかられる。なんだ、これは。半年のあいだに俺は、こんなにも軟弱になってしまったのだろうか。
しばらくして、伯母を伴った少年が戻ってきた。その姿を目にすれば、先ほどまでの不安はうそのように霧散する。
「伯母上、お久しゅうございます。このたびは」
言いかけた俺を、伯母が手をあげて制止する。
「リオネル。そなたの母を救えなかったこと、口惜しく、誠に申し訳なく思います。半年ものあいだ、よく耐え、生き延びてくれました」
歩み寄ってきた伯母に、手をしっかりと握られる。母のものに似た繊細な白い手は、わずかに震えていた。目もとも少し赤く、腫れているように見える。母のために泣いてくれたのだろうか。
「いいえ。わたしこそ、母を守れず申し訳ありません」
「真に守るということの意味を、主が理解しているとも思えんが」
響いてきたのは、低音の美声。見れば部屋の出入り口に、あの男が立っていた。父さま、と声をあげた少年が、その腰に飛びつく。仔犬のようにじゃれつく少年を片腕で軽々と抱き上げた伯母婿が、こちらへと歩み寄ってくる。
「奥方は毒により自害なされた。首謀者によれば襲撃のその日にだ。主がそのような最期を遂げさせた。いいや本を正せば前当主が判断を誤ったせいか」
一息にまくし立てられて、頭が混乱する。
「母上が、自害を?」
母の死は、胸の刺し傷が悪化したか、あるいは家令によってではなかったのか。そもそもあの状況下で、どうやって致死にいたる毒を手に入れられたというのだろう。
「リオネル。そなたの母は指輪をしていたでしょう。このような」
伯母が左手の人差し指にはめられた指輪を見せてくる。宝石の色は違うが、リング部分など全体の意匠は、確かに母の指にあったものと同じだ。
「これは王家の機密なので口外はなりませんよ。この石の下には毒針が仕込まれていて、強く押せば指に刺さるようになっているのです」
仏国王家が独自に精製した猛毒。上層階級よりも高い薬物耐性をもつ王族を即死に至らしめるようなものがこの世に存在し、母の指にあったことに驚愕する。
「上層・最上層階級は神々によって身も心も特別強靭につくられ、それゆえに死ぬことが難しい。リオネル、そなたがこの半年を発狂もせず耐えられたように。万が一の時に速やかに死ねるよう、王家の者はみなこれを身につけているのです」
だが自害というのは、この国では大変な不名誉だ。信仰する神にもよるが、自ら命を絶った者は魂が穢れ、神の御許には至れないといわれている。
「王家の者にそのような最期を遂げさせないために、主たちが存在するのだろう。父子揃って鈍らとは、護剣が聞いて呆れる」
伯母婿の言葉が胸に刺さる。
伯母婿の言うとおりだ。父も俺も、母を守るという意味を取り違えていたのだ。本当の意味を理解していなかった。だからこんなことになってしまったのだ。
「父上は、盾にとられた母上ごと、賊を殺さねばならなかったのですね」
「そうだ」
「おれは、あのとき、家令ごと母上を斬らねばならなかったのですね」
「そのとおりだ。残った賊は中層上位かせいぜい上層下位の有象無象百名足らず。その程度の雑魚、主がやれなかったはずもなかろう」
打ちのめされ項垂れながらも、うなずきを返す。
あのとき、あの状況下で。真に母を守り、救えた方法はただひとつ。俺がこの手で母の命を絶って差し上げる以外にはなかったのだ。
補足。毒針の仕込まれた指輪について。
使用方法について、アリエノールは「強く押せば針が刺さる」と簡潔に説明していますが、実際には誤って刺さることのないよう、あるいは他者によって使用されないよう、もう少し複雑な手順があります。
正確な使用方法に関しては、それこそ「指輪を所持している王族」以外にはけっして知られてはならない機密中の機密なので、自身の甥や夫であっても教えることはできません。




