第7話 銀白色の獅子 ⑥
「リオ様。リオ様ってば」
名を呼ばれながら肩を揺すられて、俺は目を覚ました。くせのある赤毛の青年が、こちらを覗き込んでいる。近侍のアルノーだ。
「こんなところにいらっしゃったんですね。お捜ししたんですよ」
屋敷中を走り回って、ぼくはもうヘトヘトです。大げさに肩を落としてため息をつきながら、そんなことを言ってくる。
見回せば、屋敷の図書室だった。目の前にはページの開かれた本が、そばにも何冊か積み上げてある。どうやら読書の途中で眠ってしまったようだ。
「奥様がお茶の用意をしてお待ちですよ。さぁお早く」
「あ、ああ」
腕を引かれて立ち上がると、胸ポケットから櫛を取り出したアルノーが、失礼と一言言いおいて、手早く髪を梳いてくれる。
寝ぐせでもついていたかと問うと、いえまったく、と言ってゆるんだ笑みを浮かべる。
「ご主人様の身だしなみを整えるとか、デキる近侍っぽいじゃないですか?」
ついでにと、襟もとや肩にも触れてくる。本当にただ触れているだけで、整えてなどいないのだ。乱れてはいないのだろう。それでも真面目な顔でそんなことをしてくるから、思わず苦笑してしまう。
「ところで、リオ様」
一通り俺の服をあちこち触ったあと、アルノーが姿勢を正す。
「今日のお茶菓子は、グリエット夫人の手による木苺のタルトです」
グリエット夫人は、母が王宮から連れてきた菓子職人だ。
彼女のつくる菓子は押しなべて美味だが、中でもタルトは絶品で、下階の住人のあいだでは上階の住人が食べ残したそれを巡って、壮絶な争奪戦が起きるという。
使用人の中にも厳格な序列があって、最終的には執事・家政婦・侍従長といった上級使用人の腹に収まるらしいが。
なぜ俺がこのような下階の事情を把握しているかというと、争奪戦に敗北したアルノーが毎度、どれだけ悔しい思いをしたか言葉を尽くして延々と語るせいだ。
「リオ様、どうかどうか、なにとぞ。お慈悲を」
そう言って、アルノーが深々と頭を下げてくる。どうにか俺に、彼の分を確保してほしい、という訴えのようだ。
アルノーは甘いもの全般に目がないが、とりわけ木苺のタルトが大好物だったか。
「わかった。なんとかしてみよう。部屋で待っていろ。ああ、そこの本を片付けてからな」
「はいっ、ただちに!」
満面の笑みを浮かべてから、ひとつに積み上げた本を手にしたアルノーが書架のほうへと走っていく。遠くからアルノーの、リオ様大好き、愛してます、一生ついて行きます! という大声が聞こえ、続いて彼を叱責する司書の怒声が響いた。それに苦笑しながら、俺は図書室を出た。
応接室には母だけでなく父もいた。珍しいことだ。普段は執務に追われて、午後のお茶もひとり書斎で手短にすませていることが多い。そんな父に焦れた母が、グリエット夫人にタルトをつくるよう頼んだのかもしれない。
「すみません母上、父上。お待たせを」
母のもとへと歩み寄り、その頬に口付けする。母の繊細な白い指が、俺の頬を撫でていく。父に目を向け軽く会釈をすれば、穏やかな微笑みを返され、座るよう促された。
俺が父母の向かいの席へと腰を落ち着けると、執事が流れるような動作でお茶の給仕を始める。
父が同席しているためか、母の機嫌がずいぶん良いようだ。もっとも、たとえ機嫌が悪くとも、それを表に出すような母ではなかったが。父も父で、先ほどから頬がゆるみっぱなしのようだ。
お互いに、フォークで切り分けたタルトを食べさせ合っている。息子の目の前で。見慣れた光景ではあるし仲が良いのはけっこうだが、なんとなく居心地が悪い。
「どうしましたリオネル? タルトが口に合いませんか?」
タルトの端をほんの少し食べたあと、紅茶ばかりを口にしていた俺に気づいて、母がそう声をかけてくる。父しか視界に入っていないかと思えば、そんなこともないようだ。
「いえ。とても美味しいです。すみません、調べ物の最中だったもので、そちらが気にかかって。失礼しても?」
「あら、まぁ」
母が執事を手招く。お茶とタルトを俺の部屋へ運ぶよう、指示してくれているようだ。
少しばかり苦しい言い訳だ。母よりも先に退室するのは本来失礼にあたるのだが、大目に見てもらおう。
「リオネル」
侍従長に椅子を引かれ立ち上がりかけたところへ、父から呼びかけられる。
「食べ盛りのそなたには、お代わりも必要かな?」
父がくちびるの片端をあげて言う。青玉のようなその瞳が、いたずらっぽくきらめいている。どうやら察しのいい父には見抜かれているようだ。あるいは母も、そうなのかもしれない。
微笑みでもって応えると、ひとつうなずいた父は執事へと、多めに持っていくよう言いつける。アルノーだけでなく俺も、グリエット夫人のタルトに与ることができそうだ。
応接室を出る間際、父母のほうを振り返った。ふたりとも顔を寄せ合って、楽しそうに談笑している。とても幸せそうなその姿が、時々ひどく羨ましい。
想い合った相手との婚姻など、上層階級ではそうそう望めるものではない。ふたりが成婚に至ったエピソードは聞くたびに内容が変わるので、どれが正しいのかいまだにわからない。だが語られたうちのどれかひとつが、真実なのだろう。
自室へ向かおうと歩き出したとたん、悲鳴が響いた。父と母のものだ。何事かと戻ってみれば、ふたりがテーブルに突っ伏していた。真っ白なテーブルクロスに、ふたりの血が広がっていく。
「父上! 母上!」
駆け寄ろうとして、なにかにつまずく。見れば、執事が床に倒れていた。少し離れたところに、侍従長もまた、同じように。
また悲鳴。アルノーのものだ。あちこちから、さまざまな悲鳴が上がる。どれも聞き覚えのある、使用人たちのものだ。
「アルノー!」
何が起きているのか。悲鳴が聞こえるほうへと走り出す。
行く先々に、見知った人たちが倒れている。家政婦、料理長、母の侍女、下僕やメイドたち。グリエット夫人まで。誰もかれもが、血を流し、倒れ伏している。
「アルノー! 誰か、誰かいないか! 返事をしろ!」
「リオネル様」
耳のすぐそばで聞こえたそれに、一瞬で肌が粟立つ。飛びのくように距離をとれば、そこにいたのは家令だった。両手になにか持っている。ガラスの小瓶と、鎖のついた枷。
「リオネル様、さぁこちらへ。お部屋へ戻りましょう」
あなた様のための、特別なあの部屋へ。
薄気味の悪い笑みを浮かべながら、家令が歩み寄ってくる。逃げなくてはと思うのに、足が動かない。
不意に左の手のひらに、痛みを感じた。熱い。見れば、なにかの紋章が焼き付いている。
「あ……あ……」
体がひどく震える。立っていられずに膝をつけば、すぐそこに立つ家令が、伸ばした手で俺の顎を掴み、顔を覗き込んでくる。
「さぁ、リオネル」
家令の手にあった枷は、いつの間にか俺の首にはまっていた。つながる鎖を強く引かれて、床へと倒れ込む。
枷を外そうと指をかけるが、俺の首にぴったりとはまったそれはびくともしない。ふたたび鎖を引かれ、廊下を引きずられていく。あの部屋へと。
「やめろ! 放せ! いやだ……!」
「リオネル」
耳のそばでまた声がした。家令のものではない。あまり馴染みのない、だが聞き覚えのある声。
「リオネル。リオネル」
誰だ。まだ幼い、少し高めの優しい声。
「リオネル。もう、だいじょうぶだよ」
あの子だ!
目を開けば、そこにあったのは翠玉のような双眸。黒衣の男とともに現れた、あの天使のように愛らしい少年が、俺の顔を覗き込んでいた。
補足その1。
過去話の冒頭、突然の襲撃にもかかわらず即座に賊を躊躇なく斬り捨てたリオネルですが、ふだんは仲の良い両親と気を許した近侍や使用人たちに囲まれて、穏やかな日々を送っていました。
途中で悪夢にすり替わっていますが、現実ではこのあと彼は自室で近侍のアルノーとともにグリエット夫人のタルトを美味しくいただきました。
補足その2。
使用人のあいだにも厳格な上下関係があり、上階の住人(主人一家)であってもそれを乱すことは許されません。
「リオネルが近侍に(特別に)タルトを与える」という行為は依怙贔屓にあたるので、他の使用人に知られれば不平不満を抱かせることになり、褒められた行動ではありません。そのため、「残りは自室で食べる」という体で密かに与えようとしています。
父はそれを察したうえで、リオネルは性格的に一人分のタルトをすべて近侍に与えるだろうと見越し、彼も食べられるよう、図らっています。
ちなみに争奪戦勝者に家令ディディエが含まれていないのは、使用人たちはみな家令を嫌っており、彼のいないところで取り合いがおこなわれているためです。




