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慈悲深く残酷な神々の箱庭 序奏  作者: M
第1部 第2章 仏国の少年Eにまつわる挿話(近侍リオネル視点)
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第5話 銀白色の獅子 ④

 これまでの十四年の人生で、これほどの屈辱を味わったことはない。

 薬によって体の、母の命を盾に心の自由を奪われた俺は、家令の寝台に鎖でつながれ、文字通り『飼われた』。


 際限のない絶望と汚辱にまみれた、悪夢そのものの地獄のような日々。それは半年にもおよぶ期間、続いたのだ。

 あの人、いや、あの方が俺の前に現れる、その日まで。




 遠くで複数の人間が走り回る足音がしていた。

 家令が引き入れた破落戸(ならずもの)たちに屋敷を占拠されて以来、その連中の粗暴で下劣な振る舞いによって、この半年まともな静寂が訪れたことはなかった。


 だがいつにも増して騒がしい。そんなふうに思っていると、ひとつの足音がこちらへとやってくる。ノックもなく扉が乱暴に開かれるその音に、俺にのしかかっていた家令が驚いたように身を起こす。


「なんだ、何事だ!」


 足早にこちらに歩み寄ってきた男が、家令に耳打ちする。さっと顔色を変えた家令が、俺から退()いて急いでガウンをまとい、男とともに部屋を出ていく。


 家令と俺を観賞しながら己を慰めていた見張りの男も、家令に怒鳴るように呼びつけられて、慌てて衣服を直しながら後を追っていく。


 家令たちが出ていったあとも、物音は続いていた。怒声や悲鳴のようなものさえ聞こえる。だがそれらはしだいに減り、やがて途絶えた。それからしばらくの時が経つ。


 奇妙なことだった。家令が戻ってくる気配もなく、出て行った扉は施錠もされず開け放たれている。


 ふと、これは好機ではないかと思った。

 あの日以来、俺には常に二人以上の監視がつけられていた。それが今、この部屋に俺はひとり残され、扉は開かれたまま、近くに人の気配もない。


 腕をつき、体を起こす。たったそれだけの動作に、ひどく体力を奪われる。それでもなんとか上体を起こせたところで、視線を巡らせれば、寝台から少し離れた床に、バスローブが落ちているのが見えた。おそらく昨夜、家令に剥ぎ取られ放られたものだ。


 下りるというよりは落ちるように寝台を抜け出て、這うようにしてバスローブに手を伸ばす。ようやく掴めたそれを引き寄せ、体にまといつけたとき、開かれたままだった扉の陰から、不意にひとりの男が姿を現した。


 足音はもちろん、気配もなかった。そのことに驚愕(きょうがく)する。

 通常の気配は当然のこと、意図的に消されたものでさえ、俺には感知できる。そのはずだった。薬によって体の自由を奪われている状態でも、凌辱を受けている最中でさえ、それが(にぶ)ったことはなかった。


 その姿を視認してしまえば、とんでもない圧倒的な存在感を放つ男だ。そんな人間が近づいてくることに、気づけなかったというのか。


 戦慄(せんりつ)しながらも男を見る。

 見上げるような巨躯だ。扉の寸法と比較して、一九〇センチを(ゆう)に超えていると推測できる。

 ダークブロンドの髪。蒼氷のような瞳。司祭平服(キャソック)に似た黒衣の下に、強靭な肉体がうかがえる。戦神を彷彿(ほうふつ)とさせるような偉丈夫だ。

 鋭い棘のついたナックルダスターをはめた両手は、その男のものではないと察せられる血で染まっている。


 何者だ。いったいなぜ、こんな男がこんな所へ。


 身動きもできずにいる俺を見下ろす、氷のようなその双眸に、ほんのわずかな憐憫(れんびん)が浮かぶ。だがそれを廊下の向こうへと()らし、男が口を開く。


「エリアス」


 張り上げたわけでもないのに、よく通る低音の美声。そしてその声に応えるように、ひとりの子どもが姿を現す。光り輝くような金髪を持った、まだ十歳にもなっていないと思われるその子どもは、飛びつくように男の腰へとしがみついた。


 小さな体で懸命に背伸びをして男を見上げるその子どもに、身を(かが)めて耳もとでなにかをささやいている。男に促された子どもが、俺のほうへと顔を向けた。


 こちらを一瞥することもなく、男が去っていく。扉の陰にその姿が隠れた途端に、あの威圧感は溶けるように消え失せる。


 残された子どもは、しばらく男を見送っていたようだったが、やがてこちらを向き直り、俺のもとへと歩み寄ってきた。

 俺のすぐ目の前で足を止めて両膝をつくと、床にへたり込むような体勢で座っている俺に目線を合わせてくる。


 大きなその瞳は、深く澄んだ翠玉(エメラルド)のような緑。あまりにも可愛らしい顔立ちなので少女と見まごうばかりだが、先ほど男が呼んだ名からすると、少年だろうか。


 伸ばされた手に、思わず身構えるが、俺の頭に触れたそれに、ゆっくりと優しく撫でられる。


「わるいひとはみんな父さまがやっつけたから、もうだいじょうぶだよ」


 そう言って、微笑んでくる。まるで咲きほころぶ花のような笑顔。

 その瞬間に湧き上がった感情(もの)をなんというのか、俺にはわからない。


 ()えた腕ですがりつくように少年を掻き(いだ)く。抵抗もなく俺の腕に収まった小さなその体は、柔らかで温かく、ほのかに爽やかな甘い香りがした。


 この半年、つねにこの身を(さいな)み続けた不快な熱と(ねば)ついた汚濁とはまるで正反対の、心地よく清らかなそれに、(けが)されつくした心身が(きよ)められていく気すらする。


 背中に回された手に、なだめるように撫でられる。もうだいじょうぶだからね、と耳もとでくり返しささやいてくる、幼くも穏やかな優しい声。


 気づけば、声をあげて泣いていた。こんなことは初めてだった。

 さぞかしみっともなく、無様な姿だっただろう。そんな俺を少年は、突き放すことも侮蔑することもなく、ただひたすらになだめ続けてくれた。



 やがて俺が落ち着くと、少年はポケットから鍵束を取り出し、俺の首と足にはめられた(かせ)を外してくれた。


「あなたはもう、自由だからね」


 よかったね。そう言ってにっこりと微笑み、また頭を撫でてくれる。じゃあね、と手をあげて去っていこうとする少年の、その服の(すそ)を、とっさに伸ばした手で掴んだ。

 足を止め、振り返った少年が、自分の服を掴む俺の手と顔とを、交互に見る。


「いっしょに、くる?」


 首をかしげながらそう問うてくる少年に、俺はうなずきを返す。立てる? と聞かれ、立ち上がろうとするが、足に力が入らない。それどころか体勢を崩して、床に倒れ込んでしまう。


 そばに座り込んだ少年が、その膝の上へと俺の頭を抱え上げ、耳もとで「ごめんね、うごかないでいいよ」とささやいてくる。


「アラン!」


 少年が扉の外へと呼びかける。近づいてくる足音。姿を見せたのは、ひょろりとした長身の、赤っぽい栗色の髪をした青年だった。


「アラン、この人をおねがい。いっしょにかえる」


 青年は少年の言葉にひとつうなずくと、こちらへ歩み寄ってくる。片膝をついて俺を抱え上げようとしたその手が、ふと止まる。青年の目は、俺の体を見ていた。

 裸身にバスローブを羽織っただけの、乱れて(はだ)けたそれ。隠せているところなど、ほとんどないに等しい。羞恥で顔に熱が(とも)る。


 お待ちを、と言いおいて青年が寝台に向かう。そこにあった掛布を手にするも、すぐに離す。掛布に付着した、さまざまな体液に気づいたのだろう。

 クローゼットへと歩み寄り、中から洗い立てと思われるブランケットを引っ張り出して戻ってきた。


 ブランケットをきっちりと体に巻き付けられた俺は、青年に横抱きにされて、少年とともにその部屋を出た。


 家令が俺の飼育部屋と称した、忌まわしくもおぞましいその牢獄から、俺は半年の月日を経て、ようやく解放されたのだ。

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