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慈悲深く残酷な神々の箱庭 序奏  作者: M
第1部 第2章 仏国の少年Eにまつわる挿話(近侍リオネル視点)
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第1話 主人たる少年とともに

「今までご苦労さま。本国(フランス)に帰りたい人はここまででいい」


 墓地の駐車場で、返り血のついた服を着替えたあと、主人(あるじ)たる少年が言う。


 二年半前、兄君のためにワシントンD.C.に(とど)まると決めた時もそうだった。

 もともとは一週間の滞在予定だったはずが、いつ帰国できるかわからなくなった。そのとき同行していた我々に、今と同じようなことを言ったものだ。「ぼくはここに残る。だけど、帰りたい人は本国(くに)に戻っていい」と。


 俺たちは近侍だ。主人に付き従い、仕えるのが役目。主人がどこへ行こうと何をしようと、黙って従うのは当たり前なのに。


「若君様。どちらへ行かれるので?」


 問えば、主人は首をかしげて少し考えるそぶりを見せる。


「とりあえず、L.A.かな」


 最後の目撃がL.A.なのだから、妥当なところだろう。もっとも、四ヶ月ほど前の情報だ。今もかの地にいる保証はないし、そもそもL.A.の住人なのかすらわかっていないのだが。


「すごいよね。あのひとを見たのが、『天使(City of )の街(Angels)』だなんて」


 だからか、主人はあの少女(ひと)を「ぼくの天使」と呼ぶ。映像で見ただけの、顔と声しかわからない少女をだ。


「我々も行きますよ。L.A.でも、その先のどこへでも」


 なあ? と隣にいるアランを見やれば、彼も当然といった様子で主人にうなずいてみせる。それを見て、主人が微笑む。さも嬉しそうに。

 けれどもしも仮に、我々が本国(フランス)に帰ることを選択したとしても。主人はそれを責めることも残念がることもせずに、あっさりとひとりでL.A.へと去っていくのだろう。はじめからそうするつもりであったかのように。


 主人から信頼されていないわけではないはずだ。だが必要不可欠とされてもいない。その事実にときどき、一抹の寂しさを覚える。


 ふと、主人が空へと視線をやる。つられて見上げた冬のD.C.の空は、冷たく蒼く澄んでいた。まるで死んだ兄君の、蒼氷の瞳のような色。


 兄さんを置き去りに、ここを離れていくぼくを責めているようだ。

 主人がかすれるような声で、そうささやくのが聞こえた。主人も同じように、空の色に兄君の瞳を思い浮かべたのか。


 主人の手が、左の顔半分を覆う包帯を取り去る。久しぶりに陽光のもとにさらした左目がくらんだのか、何度かまばたきをくり返したあと、両目で空を見上げる。

 きらめく翠玉(エメラルド)のような瞳の上下に、まだ生乾きの傷が走っている。


 死の数日前、わずかな時間意識を取り戻した兄君は、衰え果てた指先で、それでも渾身の力をこめて、主人の顔の傷をえぐっていった。

 死後、棺に納められた兄君の、その爪と指先に残った自らの皮膚と血を、主人は拭おうとはしなかった。別れのときに、胸の上で組ませたその手に、口付けさえしていた。


 D.C.で過ごした二年半の間に、主人は体質が変わり傷痕が残るほどの激しい暴行を、兄君から受け続けた。いつしか性虐まで加わったそれを、我々は黙って見て見ぬふりをするしかなかった。

 ほかならぬ主人自身に、そうするよう懇願されたからだ。そんなときでさえ、主人は我々に命令はしない。ただ願うのだ。そして我々は、それに逆らうことができない。


 吹き付けてきた風が、主人の髪を舞い上げる。兄君から受けた呪いによって、すでに半分以上が(あか)く染まった髪。主人の命の刻限を示すそれ。


 主人の指が、乱れた髪を()く。指にからむ紅い髪を映す瞳に、変化はない。

 思えば髪が紅くなった理由を知ったそのときから、主人は怒りも悲しみも、絶望や焦燥さえ、微塵もうかがわせはしなかった。


 人を殺した代償なのだから仕方ない。そんなふうに思っているのかもしれない。父君に強要されたことであって、主人が望んで殺しているわけでもないのに。


 髪を整えた主人が、包帯をこちらへと差し出してくる。受け取ったそれを、目を閉じた主人の頭部へと元通りに巻き付けていく。

 巻き終えて声をかければ、主人はぱちりと目を開いて、礼を言って微笑んでくる。


 アランが車のドアを開けると、主人はそちらへ向かおうとして、ふと足を止め、振り返る。兄君の墓所がある方向を。

 なにも表さない瞳で数瞬そちらを見ていた主人は、ふたたび我々のほうへと向き直ると、「行こうか」と言って微笑み、車へと乗り込む。


 主人に続いて俺が乗り込みドアを閉めると、アランが運転席へと座った。



 空港へ向かう道中、時計電話(クロックフォン)から優先出航の申請をしていると、隣に座っていた主人が身を寄せてくる。


「L.A.、すぐ行ける?」

「はい。わたしの名で申請していますから、おそらく最優先です」


 米国(アメリカ)における俺の階級権限は、主人の父君よりも上位にある。今この時に運悪くこの国の元首が渡航申請をしていたならまだしも、そうでなければほぼ最優先での出航が可能なはずだ。


 ほとんど間を置かずに、空港からの返信が来る。画面を覗き込んだ主人が、嬉しそうに微笑む。時計電話(クロックフォン)をしまうと、主人が俺の首へと両腕を回して抱きついてきた。


「ありがとうリオネル。……ごめんね」


 耳もとでささやいてくる。俺に本来の権限を使わせたことを謝っているのだろう。このくらい、主人のためならばどうということもないのだが。


 本来ならば俺は、主人はもとより当主の父君よりも上の地位にある。けれど今現在、俺が自分よりも下位の、しかも年下の少年を主人として敬い仕えているのには、わけがあった。


 今から七年ほど前、ちょうど今の主人と同じ十四歳の年のころに、俺は一度死んだ身だった。そんな俺を救い上げてくれたのが、当時まだ八歳になったばかりの、この少年だったのだ。

補足。時計電話(クロックフォン)について。

この世界における携帯電話。のようなもの。見た目は手のひらサイズの懐中時計。重さは50~80gほど。

二重底のハンターケース型で、表の蓋を開けばふつうに時計として、裏の蓋を開けば通話と短文通信ができる。本体とは別に音声受信機としてイヤーカフ型、リング型(通話時に耳に当てる)のものもある。本体のみでも通話は可能。

携帯方法はペンダントのように首から下げる、腕時計のように手首につける、ウエストポーチやポケットに入れるなど、人によってさまざま。

中~下層階級ではごくシンプルなデザインのものを持つ人がほとんどだが、上層階級では蓋に彫金などの装飾を施した華美なものが好まれる。

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