こぼれ話 誰にも言えない
近くにあった温もりが離れていく気配に、私は目を開いた。
見回してみれば、寝台を下りた父がガウンを羽織っているところだった。どうやら私は、少しのあいだ意識を飛ばしてしまっていたらしい。
父の寝室に呼ばれるようになって、三ヶ月が経とうとしていた。いまだ女性としての成熟には程遠い体は、うまく快楽を拾えずに、苦しさとつらさばかりが募る。耐えきれずに落ちてしまうこともよくあった。今のように。
私が目を覚ましたことに気づいた父が、こちらに視線をよこす。凍てついた氷のような蒼い瞳に見下ろされて、私は身を固くする。
「お父様、すみません、わたし」
「下がっていい」
低い声でそう言い置いて、父はもう私には目もくれずに、部屋から続くバスルームへと姿を消してしまう。
私は寝台に散らばる自分の衣服をかき集め、手早く身に着けると、形ばかり寝台の上を整えて、その部屋を後にした。
自室に戻った私は、シャワーだけの湯浴みをすませ、寝衣に着替える。
上層上位の家の娘ともなれば、本来は入浴や着替えに使用人の手を借りるものなのだろう。けれど、私に限ってはそうではない。
乳母の手を離れたあと、私の世話をしようという使用人はいなかった。彼らはみな、当主の娘ではあっても侍女を母にもつ私を蔑み、嫌厭していたのだ。
だが父とこういうことになった今、行為後の体を他人に見られずにすむのは幸いだったかもしれない。
寝支度を整え、灯りを消したそのとき、控えめなノックの音が聞こえた。
私の部屋に誰かが訪ねてくるなんて珍しいことだ。しかもこんな時間に。なにかの物音を聞き違えたのだろうかと思っていると、ふたたびノックされた。
いったい誰だろうと恐る恐る扉を開けてみて、息をのむ。
小さな燭台を手にそこに立っていたのは、父の二番目の妻、弟の生母であるエレイン様だった。
エレイン様がこの屋敷に留められて二年になるけれど、私と彼女との交流はそれほどあったわけではない。ましてや一対一で対面するなんて。
驚きで私が戸惑っていると、エレイン様は花のように可憐な顔に柔らかな微笑みを浮かべる。
「こんな時刻にごめんなさい、少し、よろしいかしら」
言われて、私は慌ててエレイン様を室内に招き入れる。
これまで私は、自室で誰かをもてなしたことなどなかった。どう対応すればいいのだろう、誰か人に頼んで、飲み物かなにかを持ってきてもらったほうがいいのだろうか。
深夜であっても、起きている使用人はいるはずだ。けれども私の頼みを聞いてくれるような人がいるかどうか。
私がうろたえていると、エレイン様は「座っても?」とソファを指し示す。それにうなずきを返すと、彼女は燭台を近くのテーブルに預け、優雅な所作でソファに腰をおろす。それを見届けてから、私も少し間隔をあけた隣へと座った。
蝋燭の淡い灯の中でさえ、光り輝くような美貌だった。
すでに一児をもつ母親とはとても思えない、まだ無垢な少女のようにさえ見える。実際、彼女はまだ二十歳にもならない年齢なのだけれど。
「先日、お医者様がいらしてね、わたくし、診ていただいたのです」
まっすぐに前を見据えたまま、エレイン様は唐突にそう切り出した。
つい数日前、アリエノール様の主催でおこなわれた茶会でお会いしたさいには健やかそうなご様子に見えたけれど、体調を崩しておいでだったのだろうか。
「どこか、お悪いのですか?」
私の問いかけに、エレイン様はゆっくりと首を横に振る。
「わたくし、子を宿しているのです。お医者様の見立てでは、女の子なのですって」
「それは」
おめでとうございます、と言いそうになって、口をつぐむ。一般的に妊娠というのは、大抵の場合おめでたいことだ。けれども彼女にとっては、どうなのだろう。
なんと言うべきか迷って私が口ごもっていると、エレイン様はひとつ息をついて、こちらへと顔を向けた。
「それで、わたくし。この子を連れて逃げることにいたしました」
続いたエレイン様の言葉に、自分の耳を疑う。
子を連れて逃げる? この屋敷から? どうやって?
今でこそ、屋敷内であればある程度は自由に歩き回ることが許されているのだろう。
けれど屋外へ出ようとすれば、それが庭であっても即座に供がつけられたはずだ。ましてや門の外へなど、出られるはずがない。そんなことは父が許しはしない。けっして。
「わたくし、この子とともに、あの人の手の及ばない所へ行くのです」
かすかに笑みさえ浮かべてそう言うエレイン様に、今度は私が首を横に振る。
そんなことは、できはしない。この世界のどこに逃げようとも、どんな手を使ってでも父は必ずエレイン様を捜し出し、ここへ連れ戻すだろう。
エレイン様に対する父の執心は尋常ではない。それは彼女自身がこの二年で、誰よりも思い知っているはずなのに。
まだ変化の見られない腹部に、エレイン様のほっそりとした手が添えられる。
「わたくし、この子には絶対に。わたくしやあなたのような目に遭ってほしくはないのです」
不意に、頭を殴られたような気がした。
エレイン様や私のような目に。
それは、どういう意味だろう。まさか彼女は、知っているというのだろうか。私と父の関係を。
「ユディットさん」
伸ばされたエレイン様の手が、私の肩に置かれる。
「もしもあなたが、ここでの生活をつらく耐えがたいと思うなら。わたくし、あなたも連れていきます」
蝋燭の炎が、彼女の翠玉のような瞳の中で揺らめいていた。ひどく真剣なまなざしが、私を見ている。
彼女の言う言葉の意味を、私は唐突に理解した。彼女がこのあと、なにをしようとしているのか。
彼女は本気で逃げおおせるつもりなのだ。けっして父の手が届かない場所へ。
私と彼女はある意味同じだった。私たちはいずれも、ある日突然に、あの父に手折られた。ただ、私と彼女では、決定的に違うことがあったけれど。
「大丈夫。苦痛はほんの一瞬ですむように、わたくしがきちんとしますから」
このひとは、私を救おうというのだ。この世で誰よりも憎んでいるだろう男の、その娘である私を。なんて優しいひと。
けれど私は、ゆっくりと首を横に振る。
「ごめんなさい、エレイン様。わたし、共には逝けません」
思えば、私が自身の気持ちをはっきりと自覚したのは、この瞬間だったのだ。
「エレイン様、わたし」
涙がこみあげてくる。喉がふさがり、ひどく声が出しにくい。けれども、言わなくては。伝えなくては。このひとにだけは、本当のことを。
「わたし、父を、……あのひとを、愛しているのです」
目を閉じると、あふれた涙が膝の上で握りしめた手の甲へと落ちた。小さく息をのむ気配とともに、肩に触れていたエレイン様の手が離れていく。
エレイン様は呆れただろうか。じつの父に純潔を奪われ、この先も体を利用されるのだとわかっていて、それでも父から離れられない、あのひとを愛しているなどと言う私を、愚かな娘だと軽蔑しただろうか。
「……そう」
吐息とともに漏れる、ささやかな声。
ふたたび差し伸べられた手の、その指先が、私の頬を伝う涙を拭っていく。
恐る恐る顔を上げて見れば、彼女は笑顔を浮かべていた。数多の人を、あの父すら魅了した、花のような美しい微笑みを。
エレイン様が立ち去り、室内は月明かりだけが差し込む薄闇に包まれる。
しばらくぼんやりと立ち尽くしていた私は、息をついて涙を拭い、ひんやりとした寝台にもぐり込んだ。
私がエレイン様を見たのは、このときが最後。
翌朝、自室で息絶えているエレイン様が発見された。
そのことが私の耳に届いたのは、さらに数日後、彼女の埋葬がすんたあとのことだった。
時々、思う。
もしもあのとき、彼女がしようとしていることを、私が誰かに話していたなら。
彼女の自害は防がれたかもしれない。そうしたら、父は最愛の女性を喪うことなく、弟もまた、幼くして母を亡くす悲劇に見舞われずにすんだのだ。
彼女が生きていたなら、彼女の遺髪が元婚約者のもとに送られることもなく、彼の恨みによって兄が死にいたる呪いを受けることもなかったのかもしれない。
そして兄によって、弟が呪われることも、また。
あのとき私が、父かアリエノール様に、誰かに知らせてさえいたなら。
けれど現実に、私はあのときのことを誰にも話さず、彼女は胎内の娘とともに死に、父は妻を、弟は母を亡くし、兄と弟は呪われた。
どれだけ悔やもうとも、時間は戻せず、現実が変わることもない。
それでも、思うのだ。
何度あの夜をくり返そうとも、私はきっと毎回同じ選択をしたに違いない。知っていながら誰にも知らせずに、彼女が自死するのを見過ごすという選択を。
だって私は、心の底では望んでいたから。
あれほど父に求められ愛されながら、それを受け入れなかったエレイン様に。
私はこの世から消えてくれればと、ずっとずっと願っていたのだ。
彼女が死んだからといって、父が私を愛することはない。そんなことはわかっていた。それでも。
あの夜のことを、この先も誰かに話すことはけっしてない。誰にも、知られはしない。
神の国までもっていく、私だけの秘密。




