31 ネーベル、不整脈!?
申請書と、入力済みのデータ。
ネーベルは二つを見比べ、眼鏡を押し上げた。
氏名。住所。生年月日。世帯の構成。必要な欄を順に確かめ、入力された数字と照合していく。
一か所、違う。
修正が必要な項目を記録し、次の書類を開いた。
今度は記入漏れだった。
「……こちらも確認が必要ですね」
ノイエルデの人口が増えるにつれ、社会保険の申請も増えていた。申請が届けば、受け付け、入力し、内容を確認する人間が要る。
現在、その最後の部分を担っているのが、元監査役アドリアン・ネーベルだった。
皇太子エアハルトの命で監査役として来たはずである。
なぜか監査役としてはクビになり、いつの間にか領府総務課で、住民の申請書と入力データを照合していた。
仕事としては、できる。
できるので、次も来る。
訂正の必要がない申請を一件処理し、ようやく一息ついたところで、机の端にある別の書類の山へ目を向けた。
公務員の健康診断に関するものだった。
対象者の名簿。受診日程。確認事項。
こちらも、これから整理しなければならない。
「健康診断……」
今の自分には、必要な言葉に思えた。
だが、その健康診断を実施するためにも、まずは書類を処理する必要がある。
ネーベルは椅子へ座り直した。
先に、目の前の照合を終わらせよう。
申請書を開く。
画面を見る。
霞む。
もう一度、申請書を見る。
同じ行を、先ほども読んだ気がした。
「…………」
少しだけ、目を休めようと思った。
猛烈なめまい。
ばたっ。
机へ伏せたネーベルは、そのまま動かなくなった。
─────
まぶしい。
ぼんやりとした意識の中で、ネーベルは顔をしかめた。
頭の奥で鈍い痛みがする。
身体を動かそうとして、背中が柔らかなものに沈んでいることに気づいた。
そして、視界に黄金色の光が揺れた。
「……私は……」
「気がつきましたの?」
澄んだ声が、すぐ近くでした。
金の巻き髪が肩から流れ、白い頬へかかっている。背後から差す光に縁取られた女性が、こちらを覗き込んでいた。
美しい、と思った。
ひどくぼやけた視界の中で、その人だけが明るく見えた。
女神。
そんな言葉が、寝ぼけた頭をよぎった。
「大丈夫でして?」
「……お嬢様?」
「ええ。総務課で倒れたと聞いて、驚きましたわ」
エレオノーラだった。
後光に見えたものは、天井の照明である。
ようやく周囲へ目を向けると、見慣れた執務室らしかった。自分はソファに横たえられ、眼鏡まで外されている。
その向こうで、銀色の頭が動いた。
「よう、起きたか」
アクセルが立っていた。
いつもなら、このソファで寝ている男だ。今日は定位置を奪われ、背もたれへ片腕を載せている。
「……申し訳ありません」
「謝る前に、もう少し休んでいらして。急に起き上がってはいけませんわよ」
エレオノーラが身をかがめた。
顔が近づく。
緑の瞳と、目が合った。
どくん、と胸が鳴った。
「お顔が赤いですわね。熱もあるのかしら」
「いえ……その……」
彼女の手が、額へ近づいてくる。
ネーベルは息を詰めた。
今度は、はっきりと分かった。
心臓が、速い。
先ほどまでの眠気とは違う。胸の内側で、妙に大きな音がしている。
「どうかなさいました?」
「……胸が、苦しいです」
「まあ!」
エレオノーラの表情が変わった。
ネーベル自身も、顔をこわばらせていた。
(まさか……不整脈?)
仕事中に倒れた。
激しい動悸がする。
軽く考えてよい状態ではないのではないか。
先ほど机の端で見た、健康診断の書類が頭をよぎる。
(心臓の病なら、順番を繰り上げてもらうべきか……)
公務員の健康診断まで待つつもりだったが、そうも言っていられないかもしれない。
「心臓が……どきどきするのです」
「それは、きちんと診ていただかなくては」
エレオノーラは真剣に頷いた。
「しっかりした医療設備でしたら、軍の基地か〈ヴァルテンベルク〉にありますわよ」
「そちらで、診察をお願いできるでしょうか」
「もちろんですわ。手配いたしましょう」
ありがたい。
領主自ら、体調を気遣ってくださる。
そう思ったところで、また彼女と目が合った。
どくどくと、胸が騒いだ。
悪化している。
ネーベルはそっと胸元へ手を当てた。
アクセルが、その手を見た。
赤くなったネーベルの顔を見る。
続いて、心配そうに身をかがめているエレオノーラを見た。
もう一度、ネーベルへ視線を戻す。
「…………」
口元が、ゆがんだ。
「ぶっ」
ネーベルが顔を向けた。
アクセルは片手で口を覆っていた。
遅かった。
「ぶはははは!!」
「アクセル!?」
エレオノーラが振り返る。
「何を笑っていらっしゃるの!」
「いや、だって、お前……!」
そこまで言って、アクセルはまた笑った。背もたれに載せていた腕を引き、今度は腹を押さえている。
ネーベルには、まったく分からなかった。
何がそんなに面白いのか。
こちらは、自分の心臓を心配しているのだ。
「……笑い事では、ないのですが」
「分かってる、分かってるって!」
分かっている者の笑い方ではなかった。
エレオノーラが眉をつり上げると、アクセルは片手を上げた。どうやら、黙るから勘弁してくれということらしい。
肩はまだ震えていた。
「もう。気になさらないでくださいましね、ネーベル」
エレオノーラが向き直った。
ネーベルの胸が、また跳ねた。
「……お嬢様」
「はい?」
「少しだけ、離れていただいても……」
「苦しいんですの!?」
心配した彼女が、さらに覗き込んだ。
近い。
ネーベルは、ソファの上で胸を押さえて苦しみだした。
アクセルが膝を叩いた。
「ひっ……ははははは!!」
「あなたは少し黙ってらしてーー!!」
執務室に、領主の声が響いた。
ネーベルは胸元を押さえたまま、真剣に考えていた。
これは、健康診断の順番を待っている場合ではない。
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