26 見ているが、見えていない
セバスティアンは、ディートリヒの予定表を眺めていた。
秘書補佐の仕事に、オットーによる機体の訓練。礼法や教養の指導も続けている。ずいぶん頼もしくなったものだと、近頃は書類を渡すたびに思う。
主人のそばへ置いた判断も、間違ってはいなかった。
エレオノーラは、ディートリヒを非常に気に入っている。
顔を見れば喜び、声を聞けば頬を緩める。そばに置きたがり、成長を楽しみにし、期待をかけることも隠さない。
昨日の大型竜種討伐でも、そうだった。
領府の屋上でリヒトシュタープを両手に握り、懸命に振っていた主人の姿を、セバスティアンは思い返した。
声援は熱烈だった。ディートリヒ機が真紅の光を引けば、飛び跳ねそうな勢いで喜んでいた。
だが、あれではまるで、贔屓の俳優が舞台へ登場したときの反応である。
新しい衣装がよく似合う。
今日も声が素晴らしい。
難しい役を見事に演じきった。
そうした喜びと、どこが違うのだろう。
セバスティアンは、予定表に置いた指を止めた。
主人が彼の働きを軽んじているわけではない。仕事ぶりを頼りにし、訓練の成果も喜んでいる。
ただ、彼女の眼差しはいつも、彼の魅力へ吸い寄せられてしまう。
それなのに。
「……進みませんね」
予定表には、着実な成長が記録されている。
二人の関係については、そうもいかなかった。
地下鉱脈への転落事件も、申し分ない機会だったはずだ。
足場を失った主人を追い、ディートリヒは迷わず飛び降りた。
命の危機を共にし、二人きりで言葉を交わす。
それでも、二人の関係は深まらなかった。
日々の補佐役としても、二人が顔を合わせる時間は多い。ディートリヒは主人の仕事を覚え、必要な資料を揃え、求められる前に動けるようになってきた。
ただ、彼女の眼差しはいつも、彼の魅力へ吸い寄せられてしまう。
「お嬢様はディートリヒを見ている。ですが、見えていない」
口にすると、これまでの出来事が、少し違って見えた。
─────
幼い頃から仕えてきたセバスティアンは、エレオノーラが皇太子エアハルトへ恋愛感情を抱いていなかったことを知っている。
恋に憧れたことまで、なかったとは思わない。
顔合わせからすでにエアハルトとエレオノーラは上手く行っていなかった。
それでも彼女は、あの婚約を家同士の結びつきとして受け入れていた。将来の皇太子妃として学び、婚約者としての務めを果たそうとしていた。
相手に心をときめかせることと、相手の隣に立つことは、彼女の中では別だったのだろう。
だからこそ、事故に遭ったディートリヒへの反応を見たとき、セバスティアンは驚いた。
病室へ駆け込み、その手を握って呼び続けた。死なないでほしい、目を覚ましてほしいと、あれほど必死に願っていた。
主人から溢れた虹色の魔力も、忘れてはいない。
あの魔力の暴走まで伴う切実さを、彼は恋情の表れと受け取った。
ようやく主人が、自分自身の心で一人の男性を選んだのだと。
その後の名前呼びも、顔を合わせるたびの喜びようも、その確信を深めるばかりだった。
だが、少し早計だったらしい。
少なくともエレオノーラ自身は、そういうものとして彼を見ていない。
お気に入りの舞台歌手でも、失いたくないとは願うだろう。二度と声を聞けなくなると知れば、必死にもなる。
人気俳優の新しい衣装を喜び、舞台歌手の一節に胸を押さえる。次の公演を楽しみにして、その成功を誰より願う。
主人が彼へ向ける熱意には、それとよく似たところがある。
好意は、疑いようもなく強い。
しかし、その好意が一人の男性へ向かうものなのかと問われると、セバスティアンも即答できなくなっていた。
当のディートリヒは、主人の期待に応えようとしている。
命を救われた恩がある。特別に目をかけてもらっていることも、本人なりに分かっているのだろう。
だから無茶な訓練にも食らいつく。慣れない実務も覚える。疲れていても、主人に呼ばれれば、返事だけは早い。
そのくせ、ほかの男との縁談が持ち込まれると、分かりやすく様子が変わった。
「もっとお二人の時間を……うーん」
セバスティアンは、顎へ指を添えた。
機会を増やせばよいのか。
二人で歩き、食事をし、仕事を離れて言葉を交わせば。
そこまで考えたところで、満面の笑みで帰宅するエレオノーラが目に浮かんだ。
今日も顔がよかった。
声もよかった。
いつもと違う姿が見られた。
エレオノーラは、彼の反応を見ている。
赤くなった顔も、言葉に詰まる様子も、目の前にある。
それをまた、新しく見られた魅力として喜んでしまう。
彼がなぜ赤くなったのか、というところまでは、なかなか届かない。
ディートリヒだけが疲れ果て、何も尋ねられずに終わるところまで、容易に想像できた。
セバスティアンは、細く息を吐いた。
問題は距離ではなかった。立ち位置である。
主人は客席にいる。
騎士は舞台にいる。
客席から眺めている限り、舞台の上の人物がどれほど赤くなろうと、それは演出のうちだ。
「ならば、舞台のほうへ上がっていただくしかありませんね」
客席に座る主人を、舞台へ上げる。
そのためにはまず、相手役の方を仕上げなければならなかった。
セバスティアンは予定表を引き寄せ、空いていない場所へ、迷わず一行書き足した。
─────
「ダンス、ですか?」
呼ばれたディートリヒは、差し出された予定表を見た。
先ほどまで空いていた場所に、文字が増えている。
「はい。今後のためにも、身につけておくべきでしょう」
「礼法の授業とは、別に?」
「実際に身体を動かして覚えていただきます」
ディートリヒは、表の上から下まで視線を走らせた。
秘書補佐の仕事がある。
オットーの訓練もある。
隙間がない。
いや、睡眠時間を削るしかない。
「……何かと入れ替わるわけでは?」
「ございません」
「追加ですか」
「はい」
セバスティアンは穏やかに頷いた。
ディートリヒは、もう一度、増えた文字を見つめた。
「俺、何か至らないことをしましたか……?」
「いいえ。順調ですので、次へ進みます」
褒められているのに、予定が厳しくなる。
この流れには見覚えがあった。
セバスティアンは彼を見て、姿勢を正すよう指先で示した。
「お嬢様と踊る機会があったとして、足元ばかり見ているわけにはいきませんよ」
「……お嬢様と?」
ディートリヒの顔が上がった。
予定表を見る目とは、まるで違った。
セバスティアンは、その変化を見逃さなかった。
「ええ。公の場でお相手を務められる程度には、なっていただきませんと」
「それは……はい」
背筋が伸びる。
返事まで、よくなった。
セバスティアンは満足して、予定表の下へ練習用の資料を重ねた。
「では、まず基本の足運びから」
ディートリヒが受け取る。
先ほどより、明らかに素直だった。
「励んでください」
ディートリヒは資料を抱えたまま、深々と一礼した。
その背中は、なぜか少し嬉しそうだった。
睡眠時間が削られることには、まだ気づいていない。
─────
数日後。執務室。
「ディートリヒがダンスの練習を? まあ! それは見学しなくては!」
目が輝いている。
「ぜひ、前の席で拝見したいですわ!」
セバスティアンは、にこやかに頷いた。
「ええ。お嬢様には、いちばん近い席をご用意いたします」
「最前列ですのね! うちわも新調しなくては!」
舞台へ上がる気は、まったくないらしい。
セバスティアンは、にこやかな笑みを崩さなかった。
主人の自覚を促すための計画は、まだ始まったばかりである。
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