17 手を離しませんわ!
発光キノコの座り心地を確かめていたエレオノーラは、ふと顔を上げた。
何かが揺れている。
青白い明かりの届く、その少し向こう。
薄い布のようなものが、はたはたとはためいていた。
「……あら?」
目を凝らしても、よく見えない。
エレオノーラは立ち上がった。足元の傘がふわりと沈み、歩くたびに靴の下で柔らかく揺れる。
不思議な場所だ。
キノコは大きいし光るし、床はふかふかだし、壁には布まである。
もう少し近くで見てみたい。
そう思って、ふらふらと歩き出した。
「お嬢様、危ない!」
ぐい、と手を掴まれた。
「えっ? あら」
足元を見る。
キノコの傘が、そこまでしかなかった。
もう一歩先には、何もない。
エレオノーラは持ち上げかけた足を、そっと戻した。
お嬢様を抱えて飛べば、地上へ戻れる。
ディートリヒは頭上の穴を見上げ、すぐにエレオノーラへ視線を戻した。
彼女を運ぶだけの力はある。だが、エレオノーラは転落したばかりだ。立ち上がれば足元がふらつくし、何か気になるものを見つけたり、上昇中に身を乗り出されたら。
万が一にも滑り落ちたら、今度こそキノコが受け止めてくれるとは限らない。
まず落ち着いてもらう必要があった。
「まあ、あちらにも光っているものが」
落ち着く気配がない。
エレオノーラが一歩踏み出し、ディートリヒは繋いだ手を引いた。傘の縁へ向かいかけた足が、ようやく止まる。
「お嬢様。まだ周囲の安全もわかっていません」
「ここから少し見るだけですわ」
「空気だって、ちゃんとあるかわかりませんし。毒気が溜まってるかもしれません」
エレオノーラの髪が、わずかに揺れた。
「あら。でも、あちらから風が。出口かしら」
「お嬢様、動かないでください!」
ディートリヒは、もう一度その手を引き戻した。
掴んだ手を離さなかった。
「あそこに何か、布のようなものがございますの」
「布?」
エレオノーラが空いている手で指し示す。
ディートリヒはそちらを見たあと、彼女を傘の内側へ引き戻した。十分に縁から離れてから、複数の光球を作り出す。
光が周囲へ広がった。
エレオノーラは、思わず息を呑んだ。
縦穴の壁面に、魔石があった。
地上で見た結晶とは違う。
光を受けたそれらは青く透き通り、向こう側まで見えそうなほど澄んでいた。純度の高い透明な魔石が、岩肌のあちこちに顔を出している。
さらに、その周囲の壁面を、不思議な繊維状のものが覆っていた。
細いものが幾重にも重なり、場所によっては薄い布のように広がっている。光球に照らされると、端のほうがはたはたと揺れるのが見えた。よく見ると、細かい網目のようなものも見える。
その下には、巨大な魔石。
大きな魔石柱が幾つも並び、淡い光の中へ続いていた。
その周囲には、羽の生えた半透明のムカデのような生き物がふわふわと飛んでいる。光球の光が、薄い体を透かしていた。
不用意に飛び上がらなくてよかった、とディートリヒは胸をなで下ろした。
「まあ……」
エレオノーラは壁を見上げ、それから周囲のキノコや魔石へ視線を巡らせた。
「不思議ですわ。この世には知らないことばかりですの」
布に見えるものが、何なのか。
どうしてこんな場所に広がっているのか。
もう少し向きを変えようとしたところで、繋いだ手がきゅっと引かれた。
「ここから見てください」
「わかっておりますわ」
エレオノーラはしっかり頷いた。
繋いだ手は離さなかった。
エレオノーラが壁の繊維を眺めている間も、ディートリヒは足元と周囲を確認していた。
ひとまず、彼女はここにいる。
自分の手の届くところに。
そこでふと、以前から胸に残っていた疑問が浮かんだ。
いつもは誰かがそばにいて、仕事が忙しく聞く機会を逃していたことがあった。
今は、二人きりだ。
「……どうして、あの時」
「?」
エレオノーラが振り向いた。
ディートリヒは少しだけ言葉を探し、それから続ける。
「俺に呼びかけてくださったんですか?」
エレオノーラは彼を見た。
繋がれた手へ、視線を落とす。
病室で握っていた手を思い出した。
眠ったままのディートリヒに、声を聞かせてほしいと呼びかけたことも。
「ああ!」
思い出すと、答えはすぐに出た。
「ディートリヒは顔もよくていいお声でしょう……URでしたし、なにより推すと決めてましたので、亡くなってしまうのが怖くて」
ディートリヒは、彼女を見つめた。
顔がよい、いいお声。
亡くなってしまうのが怖い。
そこまでは、わかる。
間にあった言葉だけが、わからない。
「お嬢様、ゆーあーるとは……」
頭上から、声が降ってきた。
「お嬢様!」
マリーだった。
救助に下りてきた彼女が猫のように身軽にキノコの傘の上に着地した。
主人を見つけると、顔をくしゃりとさせた。半泣きのまま近づいてくる。
その視線が、繋がれた二人の手へ止まった。
「っ、バウアー! 汚い手を離せ!」
ディートリヒの肩が跳ねた。
「……えっ」
続いて、自分の手を見る。
「……き、きたない……」
つい先ほどまで、お嬢様の転落を防いでいた手である。
エレオノーラは、マリーへ笑顔を向けた。
「ディートリヒが掴んでくれましたの。また落ちるところでしたわ」
「また!?」
マリーの声が、地下に響いた。
ディートリヒはこくこくと首を縦に振る。
マリーに再度睨まれ、手を急いで離す。
その後ろから、セバスティアンが現れた。
セバスティアンは普段どおり、丁寧に一礼した。
「お迎えにあがりました」
「ご苦労さまですわ!」
エレオノーラの返事も、いつもどおりだった。
マリーがそばへ寄り、主人の様子を確かめ始める。ほかの者たちも救助のために動き出し、静かだったキノコの傘の上が急に忙しくなった。
ディートリヒは、その中で口を閉じた。
ゆーあーる。
推す。
聞きたいことが、また増えていた。
─────
エレオノーラ救助後、転落は事故として処理され、グスタフにお咎めはなかった。
ただし、以前の騎士機との衝突事故の賠償は、きっちり請求された。
なお、領主が転落した際に真っ先に飛び降りた騎士が、件のパイロットだった。被害者本人とニアミスしていた。
後日。青く輝く鉱脈と発光キノコのそばで、社員たちは巨大な幕を見上げていた。
「社長、これ……抜け殻でした」
「何?」
「解析結果はケラチン、つまりタンパク質です。巨大な蛇……もしくは竜種かと」
「この縦穴を竜種が通ったってのか?」
「脱皮で引き伸ばされるとはいえ……どんだけ馬鹿でかいんでしょうね」
見上げるほど太く、先が見えないほど長い抜け殻が、はたはたと揺れる。
グスタフはしばらく眺め、社員へ向き直った。
「……これ、素材として売れねえかな」
「もうちょっと反省してください」
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