22 喜べない
2話更新します。
会議用の書類を四つに分けたところで、ディートリヒの手が止まった。
四分の一。
その量を見て、数日前の出来事が頭をよぎった。
エレオノーラの執務室へ、伯爵令息がやってきたのだ。
仕事の話かと思ったら、縁談だった。
将来を見据えたお付き合いを、と切り出されたエレオノーラは、ぱっと顔を輝かせた。
『では、この仕事の四分の一ほど引き受けてくださいますの!?』
示されたのは、机を埋め尽くす書類だった。
伯爵令息の笑顔が止まった。
「財務は? 行政経験は? 企業折衝は?」
エレオノーラの質問が進むにつれて、相手の腰は少しずつ椅子から浮いていった。
最後には帰ってしまった。
あのとき、ディートリヒは。
(……ほっとした?)
手元の書類へ視線を落とす。
した。
そこは、否定できなかった。
ネーベルは露骨に落胆していた。仕事が減ると思ったらしい。
エレオノーラも首を傾げていた。やはり仕事が減ると思ったらしい。
その横で、自分だけが安心していた。
(いや。突然、あんな話を持ち込まれても困るだろう)
そうだ。事前の調整というものがある。
領主は忙しい。
実際、あの日も忙しかった。
今日も忙しい。おそらく明日も忙しい。
だから、あれは業務上の安堵である。
ディートリヒは一度頷き、書類を揃えた。
角がずれていた。
もう一度揃えた。
(……業務上?)
自分でつけた説明が、どうも収まりが悪い。
エレオノーラはノイエルデの領主であり、ヴァルテンベルク大公爵家の令嬢だ。
いつか結婚する。
それは、何もおかしな話ではない。
よい相手が見つかれば、護衛騎士として喜ぶべきだろう。
しかも、今のノイエルデには行政経験者が足りない。
領地を治めた経験のある貴族。
市長や行政官として働いてきた者。
仕事ができて、家格も釣り合っていて、エレオノーラを大切にしてくれる相手。
実家の公爵家が、娘のためにそういう縁談をまとめてきたら。
『財務はできます?』
『もちろんです』
頭の中で、顔も知らない男が答えた。
『行政経験は?』
『ございます』
やめろ。
なぜ、すらすら答えている。
想像しているのは自分だった。
ディートリヒは眉を寄せた。
今回は、書類を見せても帰らない。
むしろ椅子を引き寄せて、予算書を読み始めるかもしれない。
ネーベルが喜ぶ。
イルゼも喜ぶ。
エレオノーラは、きっと目を輝かせる。
たいへん喜ばしい。
領地にとっては。
(そのとき、俺は素直に祝福できるのか?)
答えを待った。
誰も答えなかった。
自分しかいないのだから、当然だった。
(……いや、考える必要あるか、これ)
まだ来てもいない縁談だ。
相手に至っては、今、自分が勝手に作った。
その架空の男に行政経験まで持たせて、何を困っているのか。
ディートリヒは息を吐き、書類を一枚持ち上げた。
内容を読む。
もう一度読む。
今度は、ちゃんと読む。
同じ行を三回読んだところで、いったん置いた。
ふと、別の声を思い出した。
『死んではダメよ』
『あなたの声を聞かせてちょうだい』
紙の角を押さえていた指が止まる。
事故のときだ。
意識が沈んでいた暗闇の中で、遠くから声が聞こえた。
姿は見えなかった。どこから聞こえるのかも、よく分からなかった。
それでも、声だけは覚えている。
『ディー』
エレオノーラの声だった。
間違いない。
毎朝、隣で聞いている。
予定を読み上げている最中に、こちらの声のほうを堪能している人の声だ。
あれほど真剣に自分を呼んでいたことを、本人は覚えているのだろうか。
いつ、どこで自分の声を聞いたのか。
尋ねたことはない。
尋ねようとすれば、まず何から言えばいいのか。
事故のとき、俺を呼びましたか。
それなら聞ける。
容体の確認に近い。
では、そのあと。
あのとき、どうして俺を『ディー』と。
(……何の確認だ)
容体から、だいぶ離れた。
ディートリヒは唇を引き結んだ。
声のあとには、虹色の光があった。
暗闇の向こうで、色が重なり、きらめいていた。
ぼんやりした記憶の中で、そこだけが妙にはっきりしている。
(あれは……)
しばらく、机の上を見つめた。
知らない男の縁談。
あのときの声。
虹色の光。
考えることが、いつの間にか増えていた。
肝心の書類は、一枚も減っていない。
ディートリヒは、ふるふると頭を振った。
「……何を考えてるんだ、俺は」
まず仕事だ。
そもそも、領主の仕事を四分の一引き受けると言ったのは自分ではないか。
それが四分の一に分けたところで止まっていて、どうする。
椅子へ座り直し、ペンを取った。
そのとき、扉の向こうから声がした。
「ディートリヒー!」
エレオノーラだった。
「はい、今行きます!」
返事は即座に出た。
祝福できるかどうかには、あれほど答えが出なかったのに。
呼ばれれば立ち上がるまで、一秒もかからなかった。
口調が違うのは偉羅の方が強く出てます。
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