1 卒業式ですわ!
翌朝。
エレオノーラは、鏡台の前で深刻な顔をしていた。
背後ではメイドたちが手際よく金髪を梳き、見事な縦ロールへ整えている。卒業式にふさわしい濃紺の正装へ袖を通し、胸元にはヴァルテンベルク公爵家の紋章を象ったブローチ。磨き上げられた靴から白い手袋まで、身につけるものに隙はない。
「お嬢様、お手を」
差し出された手袋を受け取ろうと顔を上げれば、そこには今日も生きて動くセバスティアンがいた。
長い指が手袋の口を広げ、エレオノーラの手を迎える。
昨日の今日なので、まだ慣れない。
生セバスティアンが朝から身支度を整えてくれている。
しかも、無料で。
「お嬢様?」
「……なんでもありませんわ」
顔が緩みそうになるが、エレオノーラは何食わぬ顔を維持し手を手袋に滑り込ませた。
セバスティアンが指先まで丁寧に整える。
「よくお似合いでございます」
「――っ!」
朝から新規ボイスまでついてきた。
それも至近距離である。
「そ、そうでしょうとも。わたくしですもの」
礼を言う代わりに、エレオノーラは精いっぱい胸を張った。
鏡に映る頬がわずかに赤いのは、きっと魔晶灯のせいである。
胸中では、魔晶石をひとつも費やさず新規ボイスを聞ける素晴らしさを噛みしめていた。
だが、浮かれてばかりはいられない。
鏡の中には、完璧に装った悪役令嬢がいる。
艶やかな黄金の髪は幾重もの縦ロールを描き、やや吊り上がった瞳には、底光りするエメラルドの緑が宿っていた。
華やかで、気位が高く、見るからに強そうな顔立ちである。
そして今日は、学院の卒業式。
正確には──卒業式後のプロムにおいて、皇太子から婚約を破棄され、そのまま帝都を追放される日だった。
「……本当に出席なさるのですか?」
セバスティアンが鏡越しに問いかける。
「昨夜、旦那様と奥様からも伺いました。まだお身体が優れないのであれば、お休みになっても誰も咎めはいたしません」
「ええ。ですが、参りますわ」
「無理をなさる必要はございません」
「無理をしているわけではありませんの」
今日これから、自分の人生が破滅するのだから。
いや、だからこそ休んだ方がよいのではないか。
卒業式もプロムも欠席し、そのまま自室へ立て籠もる。扉の前にはセバスティアンを置き、皇太子が婚約破棄を宣言しに来たら居留守を使う。
──それも悪くない。
だが、それでイベントそのものを消せるとは思えなかった。
皇太子との婚約は、帝国の将来に関わる公的な契約である。本人が寝台へ潜り込んだくらいで、なかったことにはならない。むしろ欠席裁判のような形で、こちらの言い分すら聞かれず処分だけ決められる可能性もある。
なにより、旧エレオノーラがアンナへ行った嫌がらせは、すでに起きた後なのだ。
記憶を取り戻したのは昨日。
断罪は今日。
「今さら一日で何をどうしろと……」
「お嬢様?」
「こちらの話ですわ」
エレオノーラは扇を開き、口元を隠した。
一日で壊滅寸前の好感度を回復させ、アンナとの関係を修復し、皇太子の心を取り戻し、義弟との確執まで解消する。
無理である。
前世では経営学部だったが、時間を巻き戻す方法までは習っていない。
ならば、せめて自分の目で状況を確かめなければならない。
「参りましょう、セバスティアン」
「かしこまりました、お嬢様」
その声を背に受けただけで、少しだけ勇気が湧いた。
やはりイケボは健康にいい。
───
エーデルシュテルン銀河帝国。
複数の星系を支配し、皇帝を頂点として広大な宙域へ君臨する巨大星間国家である。
その中枢たる帝都は、人口千五百万人を擁する白亜の大都市だった。
公爵家の地上車が広い大通りを進む。
窓の外には、朝日を浴びて白く輝く建物がどこまでも連なっていた。列柱の並ぶ官庁、巨大な円蓋を戴く劇場、空を刺す尖塔。古い宮殿のような優雅さを残しながら、そのはるか上空では飛行艇が規則正しく航路を行き交っている。
石造りに見える街並みの随所へ、淡い魔力光を放つ設備が組み込まれていた。
歴史と魔法と科学が、当然のように同じ景色の中へ収まっている。
「すごい……」
エレオノーラは窓へ額がつきそうなほど身を寄せた。
「いかがなさいましたか?」
「い、いえ。今日も帝都は美しいと思いまして」
生まれ育った街を初めて見たように眺めているとは言えない。
ゲーム画面でも帝都は何度となく登場した。しかし、それは会話画面の後ろに置かれた背景でしかなかった。
同じ噴水。
同じ大通り。
同じ白い建物。
イベントのたびに使い回され、時間帯に合わせて色調だけを変えられていた一枚絵。
それが今、窓の外に果てしなく広がっている。
人が歩いている。露店が開き、街路樹が風に揺れ、建物の谷間を飛行艇の影が横切っていく。
背景ではない。
この都市だけで、千五百万人が暮らしている。
画面には映らなかった道の先にも街があり、名も顔も知らない人々の生活が続いているのだ。
(本当に、ゲームの中とは規模が違いますのね……)
やがて地上車は、帝国学院の正門をくぐった。
エレオノーラは再び言葉を失った。
帝国各地から王侯貴族や優秀な若者が集う、帝国最高峰の学院。
ゲームでは、学生たちの恋と青春を彩る定番の背景だった。
だが、実物は学び舎と呼ぶにはあまりにも巨大だった。
白亜の校舎が幾棟も連なり、中央には王城と見紛う尖塔が聳えている。広大な庭園、噴水、彫像、空中回廊。遠くには訓練施設らしき巨大な建造物まで見えた。
澄み渡った青空を、白い城のような屋根が鋭く切り取っている。
「ここ、学院でしたのね……」
「はい」
「城ではなく?」
「学院でございます」
「そうでしたわね」
セバスティアンの返答には、一分の迷いもなかった。
ゲームでは散々通った場所のはずなのに、画面の外側まで作られた途端、知らない土地になる。
地上車が正面玄関前へ滑り込む。
先に降りたセバスティアンが扉を開き、恭しく手を差し出した。
「お嬢様」
エレオノーラはその手を取り、学院の石畳へ降り立った。
周囲にいた学生や付き添いの者たちの視線が、一斉に集まる。
ひそひそと交わされる囁き。
好奇。
警戒。
そして、あからさまな嫌悪。
三日間寝込んでいた悪役令嬢が、卒業式当日に姿を現したのだ。注目されないはずがない。
エレオノーラは背筋を伸ばした。
こういうとき、縦ロールは強い。
顔を上げているだけで、何やら自信に満ちて見える。
内心では今すぐセバスティアンの背後へ隠れたかったが、公爵令嬢の矜持がそれを許さない。悠然と扇を広げ、何事もない顔で校舎へ進んだ。
───
卒業式が執り行われる大講堂には、すでに大勢の卒業生と来賓が集まっていた。
高い天井を支える白い列柱。正面には帝国旗と皇室旗が掲げられ、その下へ壇上が設けられている。
エレオノーラが入場すると、ざわめきがわずかに大きくなった。
だが、彼女の耳にはほとんど入っていなかった。
見つけてしまったのだ。
講堂の中央付近に、淡い光をまとった少女がいる。
アンナ・シュテルン。
原作ゲームの主人公にして、銀河へ愛と平和を届ける星乙女。
そして、今日エレオノーラを破滅させる中心人物である。
(本物のアンナ……!)
画面越しに何千回と見たヒロインが、友人らしき令嬢と楽しげに話している。
小柄で可憐な少女だった。
柔らかなストロベリーブロンドの髪に、ピンクオーロラの光を宿した瞳。
古い伝承に語られる《星乙女》。
世が乱れるときに現れ、荒ぶる星の魂を鎮め、人々の争いを止めるとされる存在だ。
公式プロモーションはこうだ。
星々の運命は、ひとりの乙女に託された。
あなたは、銀河に希望をもたらす《星乙女》。
個性豊かな英雄たちと出会い、絆を結び、彼らとともに大空へ――。
戦乱に引き裂かれた星々を巡り、
みんなに愛と平和を届けよう!
───
アンナが笑えば周囲の空気まで明るくなる。
守ってやりたいと思わせる儚さ、人の視線を自然に引き寄せる華がある。
ただし、エレオノーラが目を奪われた理由はそれだけではない。
アンナの周囲が、異様に眩しかった。
人の輪郭へ重なるように、色のついた光の縁が見える。
金。
金。
さらに金。
ところどころに黄色。
ゲームのカード枠と同じだった。
(なんですの、あれ)
目を凝らしても消えない。
試しに背後のセバスティアンを振り返る。
彼の端正な輪郭にも、淡い金色の縁が重なっていた。
(SSRの金枠……?)
どうやら自分には、人々のゲーム上のレアリティが見えるらしい。
旧エレオノーラの頃には、こんな力はなかった。転生したことで得た能力なのだろうか。
だが、今はそれどころではなかった。
アンナの周囲が、あまりにも高レアだらけなのである。
彼女のすぐ隣には、金髪と王青色の瞳を持つSSR皇太子エアハルト。
本来ならエレオノーラをエスコートしなければならない婚約者その人である。
白と青を基調とした礼装を完璧に着こなし、いかにも正統派の王子様といった微笑をアンナへ向けている。
少し離れたところでは、黒の礼装をまとったSSR公爵令息アルブレヒトの銀髪と赤い瞳が、ひときわ目を引いた。
冷ややかな美貌で周囲を寄せつけないくせに、アンナのそばでは表情を緩め優しげな眼差しを向ける。完全に堕ちている。
大柄な赤毛の空騎士、SSRマクシミリアンは、周囲の迷惑など気にも留めず豪快に笑っている。
ゲームではアンナと一瞬目が合っただけで恋に落ちた男である。現物を見ても、実に頭からっぽそうな爽やかさだった。
皇太子の近くには、冷静な側近SRオスカー。
ようやく金色以外の枠が現れた。
さらに、宮廷音楽と芸術の名門ナハティガル伯爵家の次男、SSRルーカス。
そして──。
エレオノーラの視線が止まる。
コンラート・フォン・ヴァルテンベルク。
分家から公爵家へ迎えられた、エレオノーラの義弟。当然SSRだ。
かつては自分を慕っていたはずの彼も、今は側近のエミールを伴い、アンナたちの近くに立っている。
(ちょっと待ってくださいませ)
皇太子。
公爵令息。
名門軍人伯爵家の令息。
皇太子の側近。
芸術の名門伯爵家の令息。
公爵家の後継候補と、その側近。
帝国の将来を背負う若い有力者たちが、一人の少女を中心に見事な集団を形成している。
(これ、卒業式ですの?)
アンナ・シュテルン特選、高レア男性展示会ではなく?
「……籠絡されすぎではありませんこと?」
思わず口から漏れた。
「お嬢様」
背後から、セバスティアンの低い声が飛んでくる。
「聞こえております」
「聞かせましたの」
「左様でございますか」
否定はされなかった。
そのとき、コンラートがこちらに気づいた。
茶金の髪の下で、茶色の瞳がすっと細められる。
幼い頃の記憶にある、姉を見つけて嬉しそうに駆け寄ってくる少年の顔ではない。
警戒と苛立ち。
それから、わずかな失望。
コンラートはエミールとともにこちらへ歩み寄ると、儀礼どおりの礼をした。
「お加減はよろしいのですか、姉さん」
「ええ。心配をかけましたわね、コンラート」
「……そうですか」
返事はそれだけだった。
体調を気遣う言葉とは裏腹に、声は硬い。
エレオノーラも何を言えばよいのか分からなかった。
昨日までの自分が彼へどんな態度を取り、何を言ったのか。記憶として知ってはいても、それを今の自分の感情として咀嚼しきれていない。
謝るにしても、こんな人目のある場所で突然始める話ではない。
「卒業式へ来られるとは思いませんでした」
「最後ですもの。出席したかったのですわ」
「……何事も起こさなければよいのですが」
コンラートはそれだけ告げると、アンナたちの方へ戻っていった。
エミールが申し訳なさそうに一礼し、その後を追う。
(仲、最悪ですわね……)
昨夜の予想が、早くも現実によって裏づけられた。
さらに、ルーカスと目が合った。
同じ派閥の家に生まれ、年齢も近い二人は、幼い頃からよく遊んだ。彼がピアノを弾き、エレオノーラが絵を描いて見せ、くだらないことで笑い合った歳月が確かにある。
だが今のルーカスは、遠くから儀礼的に会釈しただけだった。
すぐにアンナへ顔を向け、彼女にだけ柔らかく微笑む。
(こちらも、ずいぶん遠くへ行ってしまいましたのね)
ゲームで見ていた頃は、ただアンナへの親愛度が上がっただけだと思っていた。
だが現実では、そのぶんエレオノーラと過ごした歳月が遠ざかっている。
胸の奥が、かすかに痛んだ。
ゲーム画面で見ていたときは、単なる攻略状況だった。
アンナへの親愛度が上がり、攻略対象の台詞や表情が変化する。それだけのことだと思っていた。
しかし、ここには人と人との関係がある。
アンナとの距離が縮んだ分だけ、エレオノーラとの距離が離れている。
数字では見えなかったものが、今は嫌になるほどはっきり見えた。
皇太子はアンナの隣。
義弟も、幼馴染も、帝国の若い有力者たちも、みなアンナの側。
対してエレオノーラの隣には、誰もいない。
──いや。
振り返らなくても分かる。
セバスティアンがいる。
誰も近づいてこないエレオノーラの後ろに、彼だけは当然のように立っている。
「お嬢様」
「なんですの?」
「お顔の色が優れません。やはり、お戻りになりますか」
心から案じている声だった。
(ボーナスボイスゲットですわ!)
ゲームでは、今日を境にアンナへ忠誠を移すはずの男。
けれど少なくとも今この瞬間、セバスティアンはエレオノーラだけを見ていた。
それだけで、心細さが少し薄れる。
「いいえ。このまま出席いたしますわ」
「かしこまりました」
アンナの周囲には、帝国の未来を担う男たちが揃っている。
こちらにいるのは、たった一人。
だが、その一人はセバスティアンである。
(戦力としては、まったく不足を感じませんわね)
エレオノーラは扇の陰で小さく笑い、間もなく始まる卒業式へ向き直った。
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