3 美形イケボ執事は実在した
取っ組み合いの末、転落──
「……完っ全にわたくしの馬鹿ですわ……」
「お嬢様?」
「まだ頭がお痛みになるのですか?」
メイドたちが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「違いますの。これは頭ではなく、過去の己の愚かさが痛いのですわ……」
どう説明したものかとさらに頭を抱えた、そのとき。
部屋の外から、控えめなノックの音がした。
扉のそばにいたメイドが応対し、すぐに寝台へ振り返る。
「お嬢様。セバスティアンでございます」
エレオノーラの動きが止まった。
セバスティアン。
その名前なら、何度も聞いた。
プロフィール画面で。
ホーム画面で。
カードストーリーで。
季節イベントで。
新規衣装や限定ボイスが実装されるたびに。
だが、今の彼女にとっては、まだ画面の向こうにいた攻略対象の名前でしかない。この世界で自分とどのような距離にあり、どのように接してくる人間なのか、実感が追いついていなかった。
「……お入りなさい」
どうにか平静を装って答える。
扉が静かに開いた。
黒を基調とした燕尾服に身を包んだ、長身の男が入ってくる。
艶のある黒髪。切れ長の黒い目。一見すれば細身だが、隙のない立ち姿からは衣服の下まで鍛えられていることが分かる。
エレオノーラは、まずその顔を見て固まった。
知っている。
何度も眺めた顔だ。
けれど、カードに描かれた一枚絵とはまるで違った。
立体的だった。
当然ながら歩いている。
瞬きをする。
自分へ向けて視線を動かし、黒い燕尾服の裾を揺らしながら寝台へ近づいてくる。
足音がある。
衣擦れの音がある。
胸元が呼吸に合わせて、ごくわずかに上下している。
生きている。
生のセバスティアンが、目の前にいる。
彼は寝台から少し離れた位置で足を止め、完璧な所作で一礼した。
「お嬢様。お目覚めになられたと伺いました」
「──っ!」
エレオノーラは息を呑んだ。
声。
その声も知っている。
ゲームの中で、数え切れないほど聞いた声と同じだった。
だが、ゲームから流れる収録済みの音声ではない。
目の前の男が、自分を見て、今この場で喋ったのだ。呼吸から生まれた声が空気を震わせ、直接耳へ届いている。
「……生セバスティアンですわ」
じわじわと実感が押し寄せる。
「声帯がありますわ……」
エレオノーラは、瞬きも忘れて彼を見つめた。
あまりにも長く凝視され、セバスティアンがわずかに眉を寄せる。
「お嬢様?」
また喋った。
プロフィール画面にも、カードストーリーにも、季節イベントにも存在しない。
完全な新規ボイス。
目の前の状況に合わせて発せられた、セバスティアン本人による完全なアドリブである。
「圧倒的イケボっ!!」
しかも、課金──魔晶石は必要ない。
親愛度も、イベント解放も、カードの限界突破も必要ない。
「はっ……新規ボイスが……これからも無料で……!?」
感極まったエレオノーラは、胸を押さえつけた。
ホリスタ一番人気にして、星乙女たちから幾多の札束を巻き上げてきた男が、実在する。
エレオノーラもまた、彼のガチャへ散々課金した星乙女の一人だった。
セバスティアンの表情が険しくなる。
意味のわからない言葉を繰り出す主人。
三日間も眠り続けていた主人が再び倒れると思ったのか、すぐに一歩近づいてきた。
「お嬢様、お気を確かに」
また新しい台詞。
しかも近い。
「え、ええ。大丈夫ですわ。何も問題ございませんことよ」
エレオノーラは慌てて背筋を伸ばし、公爵令嬢らしい微笑を取り繕った。
表面だけは。
その視線は、完全にセバスティアンへ固定されていた。
ゲームの世界へ来た。
その事実が今、初めて一人の人間の姿を伴って腹へ落ちる。
セバスティアンがいる。
カードでも、立ち絵でも、収録済みの音声でもない。
生きているセバスティアンが、目の前にいるのだ。
(デフォでセバスティアンがいるだなんて!最っ高ですわ〜!)
─────
──その死の直後。
ひび割れたスマートフォンが、車道の上に転がっていた。
画面には蜘蛛の巣のような亀裂が広がっている。
遠くから、救急車のサイレンが近づいてくる。
ざわめく人々。誰かを呼ぶ声。慌ただしく行き交う足音。
その中心で、一人の若い女が倒れていた。
持ち主の手を離れたスマートフォンでは、四周年記念生放送がまだ続いている。
周囲の騒ぎとは不釣り合いなほど華やかな音楽が、外れたイヤホンから微かに漏れていた。
『URディートリヒだけではありません!』
弾んだ司会者の声が、割れた画面から響く。
『ホーリースターメイデンの四周年を飾る、さらなる目玉キャラクターも登場!』
画面いっぱいに星々が流れ、次なる告知を覆い隠していく。
『退場から二年ぶりに復活!』
サイレンが、さらに近づく。
『皆様待望の──!』
スマートフォンの画面が暗転した。
一瞬の静寂。
やがて、闇の中から女の高笑いが響き渡る。
『おーっほほほほほ!』
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