2 階段から落ちましたわ!
──三日前。
「……失礼。もう一度おっしゃって?」
「お前をプロムでエスコートするつもりはない」
それだけいうと、王青の瞳はもうこちらを見ていなかった。
エアハルトがアンナに卒業式のプロム用のドレスを贈ったと知った。
しかも、皆が知っていた。
廊下でも、教室でも、聞こえてくるのはその話。
殿下が星乙女にドレスを。では、当日のエスコートも。まあ、素敵。
素敵ではない。
婚約者は、こちらにいる。
エレオノーラは手にしていた扇を閉じた。
別に、ドレスが欲しかったわけではない。ドレスなら持っている。必要なら仕立てる。あの男に選んでもらわなくても、何ひとつ困らない。
そもそも、エアハルトを好きだったかといえば。
好きではない。
昔から性格が悪い。
今も悪い。どうやら今後も直る様子もなさそうだ。
それでも、皇太子と公爵令嬢の政略婚である。将来は皇室へ嫁ぐのだと受け入れ、相応の務めも果たしてきた。
恋人としての甘い言葉など求めていない。
せめて婚約者として、人前でこちらの顔を潰さない程度の働きはしていただきたい。
それが、プロムのエスコートを拒否。
別の女性にはドレスを贈呈。
周囲には知れ渡っている。
喧嘩なら、買いますわよ。
─────
「アンナ・シュテルン。お待ちなさい」
階段の手前で、アンナが振り返った。
エレオノーラの顔を見るなり、その表情が曇る。
「……なんでしょうか」
「プロムのドレスを、殿下からお受け取りになったそうですわね」
「はい」
はい。
エレオノーラのこめかみが、ぴくりと動いた。
「何度申し上げれば分かりますの。殿下には婚約者がおりますのよ」
「知っています」
「でしたら」
この一年、散々だった。
アンナが現れてから、婚約者のいる男子たちが、ぞろぞろと彼女の周囲へ集まり始めた。
人前で手を繋ぐ。
ランチを一緒に取る。
東屋を覗けば、またいる。毎度別の男と。
星乙女の周囲だけ、婚約という制度が消滅するのか。
何度も注意した。
皇妃にも訴えた。
改善はなかった。
その集大成が、プロムである。
「婚約者のいる殿方との距離を考えなさいと、何度も申し上げましたわよね?」
「だからって、毎回そんな言い方をしなくてもいいじゃないですか」
「毎回同じことをなさるからでしょう!」
アンナも眉を寄せた。
「わたしだって、ずっと我慢してきたんです。嫌味を言われたり、皆さんの前で責められたり。教科書を破られたり、机の中に虫を入れられたり、衣装を破られたり」
ある。
そこは、ある。
嫌味も言った。威圧もした。器物損壊も、した。
何もしていません、などと白々しく目を潤ませる気はない。
「ええ、いたしましたわ」
「認めるんですか?」
「目の前で一年間これだけやられて、何もしない方がおかしいですわ!」
胸を張って言うことではなかったが、エレオノーラは張った。
「それで、今度はプロムのドレスまで。どういうおつもり?」
「わたしからお願いしたわけじゃありません」
「お断りにはなれますでしょう」
「殿下が、わたしにってくださったんです」
「ですから、その殿下には」
「婚約者がいるんですよね」
アンナが言葉をかぶせた。
エレオノーラの顎が、わずかに上がる。
アンナも引かなかった。
一年間、顔を合わせるたびに叱られてきた。
今日もまた、呼び止められて、上から言われている。
腹が立っていた。
だから、言わずにおけば済んだ一言が出た。
「婚約者なのに、どうして殿下はあなたではなく、わたしにドレスを贈ったんでしょうね?」
「……なんですって?」
「そんなだから、殿下もあなたと一緒にいたくないんじゃないですか?」
エレオノーラは、ゆっくり息を吸った。
淑女は、人前で声を荒らげない。
淑女は、感情に任せて振る舞わない。
淑女は──。
「この……泥棒猫!」
淑女、終了。
エレオノーラはアンナの制服の袖を掴んだ。
「ちょっと!」
「こちらのお話は、まだ終わっておりませんわ!」
「離してください!」
アンナが腕を振る。
エレオノーラは離さない。
「そのドレス、お返しなさい!」
「あなたのじゃないでしょう!」
「贈った男がわたくしの婚約者ですのよ!」
「だから、そういうところが!」
アンナが袖を引き抜こうとする。
勢いに引かれたエレオノーラが一歩詰める。
近い。
腹が立つほど近い。
アンナの手が伸びた。
金の髪が、ぐいっと引かれた。
「いっ……!」
エレオノーラの首が傾く。
一瞬、二人の動きが止まった。
エレオノーラが、目だけをアンナへ向けた。
「髪を引っ張りましたわね⁉」
「そっちが離さないから!」
エレオノーラも反射的に、アンナの髪をつかみ返した。
「いたっ! ちょっと、何するの!」
「同じことですわ!」
片や、公爵令嬢。
片や、星乙女。
見るも無惨な取っ組み合いである。
「離して!」
「そちらが先ですわ!」
「あなたが先に掴んだんでしょう!」
「髪はそちらが先です!」
「いたたたっ、引っ張らないで!」
「あなたも引っ張っておりますわよ!」
「じゃあ離して!」
制服の袖は引きつれ、襟は曲がり、丹念に整えた髪はすでに台無しである。
ローファーの靴底が床を擦った。
「いい加減になさいませ!」
「そっちこそ!」
アンナが足を踏み直した。
踵の下に、床がなかった。
「あ」
ローファーが段の縁を滑った。
体が後ろへ傾く。
髪を掴んでいた手がほどけ、アンナはとっさに、目の前にあったエレオノーラの腕を掴んだ。
「えっ」
エレオノーラの足も浮いた。
今度こそ、二人の意見は一致した。
落ちる。
「きゃあああっ!」
「いやあああっ!」
公爵令嬢も星乙女も、階段は等しく転げ落ちた。
制服の裾がひるがえり、靴底が宙を向く。
互いの腕を掴んだまま、どちらが上かも分からなくなる。
強い衝撃が、エレオノーラの頭を打った。
そこで、意識が途切れた。
エレオノーラは、三日間目を覚まさなかった。
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