1 悪役令嬢の目覚め
新作ですよろしくおねがいします!
街を行き交う人々。建物の壁面を彩る広告。舗道を踏む無数の靴音。
その中を歩きながら、彼女は片手に持ったスマートフォンを食い入るように見つめていた。
両耳にはイヤホン。
画面いっぱいに映っているのは、女性向けSFロマンゲーム『銀河聖国の星乙女 ─Holy Star Maiden─』の四周年記念生放送である。
きらびやかな星々を背景に、いよいよ新規クラスチェンジカードの発表が始まった。
暗転した画面の中央へ、一枚のカードが浮かび上がる。
青い枠。
レアリティ、R。
重厚な盾を構え、全身鎧に身を包んだ空騎士。
「……え?」
見覚えはある。
ディートリヒ・バウアー。
サービス開始当初から実装されている、入手しやすいランクR盾。序盤では世話になるが高レアを引けば編成から外れる。彼女もとっくの昔に使わなくなっていた。
思い入れがないわけではないが、特別推す理由もなかった。懐かしい低レアカードを久しぶりに見た、という程度の認識だった。
「四周年のクラスチェンジが、ディートリヒ?」
どうして?もっとUR化を期待されているメインキャラクター達がいるはずだ。
そう思った瞬間、画面の中で青いR枠に亀裂が走った。
乾いた音を立て、枠が砕け散る。
溢れ出した光が、画面を虹色に染め上げた。
「えっ」
レインボーの輝きが、新たなカードの輪郭を描く。
古びた全身鎧は、白銀の洗練された意匠へ。無骨だった盾も、星々の光を受けて煌めく重装盾へと姿を変えていく。
「えっ、ちょっと待って」
マスクが外れる。
予想外どころではない。
灰青の瞳にアッシュブロンド。
とんでもない超イケメンだった。
鍛え抜かれた空騎士らしい逞しさ。強い意志を宿した眼差し。派手さはないのに、一度見れば目を逸らせなくなる端整な容貌。
しかも作画が神。
「誰この男!?」
だが、彼女の知っているディートリヒは、顔も見えなければまともな台詞も与えられていなかった、序盤用のR盾だ。
「あの序盤のヘルメット頭が!?」
混乱する彼女へ、運営はさらなる一撃を叩き込んだ。
イヤホンから、低く澄んだ男の声が流れる。
初めて与えられた本格的なボイスで、ディートリヒが静かに告げる。
『命の恩人であるお嬢様のため、この命を捧げます』
「声えっぐ」
落ち着きと忠誠、その奥に秘められた熱を帯びた声。
アニメでも聞き覚えのある、人気男性声優のものだった。
「顔が! 声が! あっ、この声もしかしてあの超イケボ声優!?」
画面いっぱいに、虹色の光が弾けた。
新たなカード名が鮮やかに刻まれる。
――UR ディートリヒ・バウアー。
新しいイベントスチル、レベル上限突破で変わる立ち絵。
四年間ほとんど顧みられなかった低レア盾が、たった数秒で全く別の男へ変貌していた。
胸が、きゅんと鳴った。
きゅん。
きゅん、きゅん――止まらない。
「お嬢様のため!? この顔と声で命を捧げるの!?」
強いか弱いかなど、もはやどうでもよかった。
絶対引く。
育てる。
ホーム画面に置く。
解放されるボイスを全部聞く。
貯め込んだ魔晶石をすべて差し出しても惜しくない。
なんならバイト代を全て吐き出して──
「声よきーーーーー!!!」
理性は完全に吹き飛んでいた。
さっきまで「昔お世話になった低レア盾」としか思っていなかった男が、今や眩いレインボーの輝きをまとい、胸のど真ん中へ突き刺さっている。
「推せるーーーー!」
その直後だった。
右手側からけたたましいクラクション。
「──え?」
スマートフォンへ釘づけになっていた意識が、現実へ引き戻される。
すべてが、異様なほどゆっくりと動いていた。
視界の先で、信号機が赤く灯っている。
自分はもう、車道の中へ踏み出していた。
イヤホンからは、四周年を祝う華やかな音楽やMCが流れ続けている。
急ブレーキであがるタイヤの悲鳴。
迫ってくる二つのヘッドライト。
大きな車体。
白い光が、視界いっぱいに広がる。
動けない。
逃げなければと思うのに、身体は指一本すら言うことを聞かなかった。
衝撃。
世界が砕け──
すべてが暗転した。
─────
誰かが、泣いている。
重い瞼を持ち上げる。滲んだ光の向こうに、金糸の刺繍を施した天蓋が見えた。見覚えのない天井。
身体が鉛のように重い。頭には薄い靄がかかり、考えようとしても何ひとつ掴めない。喉もひどく渇いていた。
「……エラちゃん?」
震える声とともに、柔らかな手が頬に触れた。
ぼやけていた輪郭が、ゆっくりと像を結ぶ。
寝台の脇に、美しい女性が座っていた。華やかな身なりにはまるで似合わないほど顔をくしゃくしゃに歪め、こちらを見つめている。
「エラちゃん……分かる? ママよ」
「……ママ?」
掠れた声で呼ぶと、その目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「よかった……本当に……」
女性は縋るように手を握り、額へ押し当てた。
その声に反応して、部屋のあちこちから安堵の息が漏れる。
寝台を囲んでいたメイドたちも、一様に心配そうな顔をしていた。泣き出す者、胸を撫で下ろす者、慌てて医師を呼びに走る者。
「三日もお目覚めにならなかったのですよ、エレオノーラお嬢様」
「エ、エレオノーラ……?」
聞き覚えがあるような、ないような。
何かが記憶の底へ沈んでいる。けれど手を伸ばそうとすると、霧の向こうへ逃げてしまう。
身体を起こそうとした途端、ひどい眩暈に襲われた。
「いけません、お嬢様!」
「まだお休みになってくださいませ」
「無理をしては駄目よ、エラちゃん」
ママと名乗った女性が、細い肩を抱いて枕へ戻してくれる。その手つきはどこまでも優しく、触れた指先はまだ震えていた。
ここは、どこなのだろう。
自分の寝室にしては広すぎる。高い天井、重厚な調度品、磨き上げられた床。寝台ひとつを置いてなお、そこらの家なら丸ごと収まりそうな部屋だ。
戸惑いながら周囲を見回していると、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
勢いよく扉が開く。
「ノーラ!」
飛び込んできたのは、威厳ある風貌の男性だった。
だが今は、身なりを整える余裕すらなかったらしい。乱れた髪のまま寝台へ歩み寄ると、彼は信じられないものを見るように娘の顔を凝視した。
「お父様……?」
「ああ、そうだ。父だ。私が分かるか?」
頷くと、男性は深く息を吐き、片手で顔を覆った。
「よかった……」
その短い言葉に、不安が滲んでいた。
父はすぐに寝台の傍らへ膝をつき、娘の手を両手で包み込んだ。
「何も心配しなくていい。明日のことも、今は考えなくていいんだ。身体を治すことだけ考えなさい」
「明日……?」
「学院の卒業式よ」
卒業式。
その言葉が、胸の奥へ落ちた。
(卒業式……?)
(エレオノーラ……?)
「まだ身体がつらいなら、欠席して構わないの。プロムだって出なくていいわ。卒業の手続きはこちらでどうにでもできますもの」
「そうだ。誰にも文句は言わせん。ノーラが無理をする必要など、どこにもない」
責める言葉も、家の名誉を持ち出す言葉もない。三日間眠り続けていた娘が目を開けた──ただそれだけを、心の底から喜んでいる。
「どうする? 行けるか、休むのか?」
父に尋ねられ、ほんの一瞬だけ考える。
何も分からない。頭はまだ重く、身体にも力が入らない。
けれど──。
「……行きますわ」
自分の口からこぼれた言葉に、わずかな違和感を覚えた。
自分はこんな話し方をしていただろうか。
いや、声も違う気がする。
「本当に大丈夫なの?」
「ええ。最後ですもの」
最後。
その言葉が、胸の奥へ落ちた。
──卒業式。
何かが引っかかった。
(卒業式……?)
頭の中で、その言葉だけが何度も反響する。
(エレオノーラ……学院……卒業……)
ばらばらだった断片が、突然、激流となって押し寄せた。
エレオノーラ──悪役令嬢。
星乙女。
皇太子。
アンナ・シュテルン。
きらびやかなゲーム画面。
美しい男たちの立ち絵。耳へ残る甘い声。何度も見たタイトルロゴ。
女性向けSFロマンゲーム──
『銀河聖国の星乙女』
──Holy Star Maiden。
「…………」
エレオノーラは目を見開いた。
「卒業式⁉」
突然の大声に、父と母だけでなく、部屋中のメイドたちまで肩を跳ねさせた。
明日の卒業プロム。
それはゲーム序盤最大の目玉イベント。
悪役令嬢エレオノーラ・フォン・ヴァルテンベルクが、皇太子エアハルトから婚約を破棄され、帝国中央から追放されるイベントである。
ユニットとして手元から消滅するわけではない。
しかし、メインストーリーからは事実上の退場。その後、現在に至るまで物語から完全に姿を消す。
序盤の踏み台悪役令嬢。
つまり、自分は明日、婚約を破棄される。
現在の盤面が、凄まじい勢いで脳裏を駆け巡った。
何ひとつ確証はないのに、嫌な予感だけは鮮明だった。
(義弟のコンラートとは……仲が険悪ですわね?)
断片的に戻ってきた記憶が、無慈悲に肯定する。
(そして皇太子は――もう完全にアンナ側では?)
脳内をよぎる皇太子とのすれちがいの日々。
皇太子と腕を組んで歩くアンナ。
(しかもわたくし、アンナのことをいじめてましたわね)
さらに思い浮かぶのは攻略対象であり──帝国の有力貴族の子息達が、アンナの周りを取り囲んでいた記憶。
(貴族の若い殿方達……もうアンナに籠絡されてませんの?)
学院にも、皇太子の周囲にも、味方がいない。
時間もない。
残された猶予は、卒業プロムが始まるまでの一日にも満たない。
エレオノーラは豪奢な寝台へ沈んだまま、呆然と天蓋を見上げた。
「……わたくし、詰んでませんこと?」
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20260917改稿しました。




