4 お嬢様、お気を確かに!
ディートリヒ・バウアーが、執務室へ入ってきた。
自分の足で歩き、エレオノーラの前へ進む。
もう、身体に繋がれた管もない。
エレオノーラは応接用のソファに座ったまま、その姿を目で追った。
彼が片膝をつく。
胸に手を当て、深く頭を下げた。
「──ご報告いたします」
ああ。
本当に、戻ってきたのだ。
「此度は俺の未熟のせいで、ご心配をおかけしました」
顔が上がった。
その姿を縁取る、虹色の枠。
URだ。
灰金の髪。
まっすぐにこちらを見る、灰青の瞳。
ドッ。
心臓が変な音を立てる。
(顔がいい)
エレオノーラの指が、膝の上の扇を握った。
(やっぱり顔がいいですわ)
知っていた。
知っていたが、改めて元気な姿で正面に跪かれると、話が違った。
近い。
しかも、こちらを見ている。
エレオノーラは背筋を伸ばした。
公爵令嬢として、主君として、復帰した騎士を迎えなければならない。
「命の恩人であるお嬢様のため」
ドンッ。
心臓が跳ねた。
声が、胸の奥へ入ってきた。
何度も再生した、あの声。
けれど今は、画面も、スピーカーも介していない。
「この命を──」
(顔よし! 声よし! そして入職ボイス!)
無理だった。
(ありがとうございます‼)
「はうっ……♡」
ばたり。
エレオノーラが、ソファへ横倒しになった。
「お嬢様!」
メイドが駆け寄る。
セバスティアンが、ディートリヒへ振り向いた。
「貴様、なにをした!?」
「えっ?」
ディートリヒは跪いたまま、両手を見た。
何も持っていない。
何も触っていない。
まだ報告の途中だった。
「お嬢様、お気を確かに!」
「……たいへんけっこう、ですわ……」
「何がでございますか!」
─────
メイドに背中を支えられ、エレオノーラは何とか身を起こした。
胸元を扇で扇ぐ。
暑い。
とても暑い。
目の前ではディートリヒが、立つべきか跪いているべきか分からない顔をしていた。
「申し訳ありません。俺、何か失礼を──」
「ございません!」
エレオノーラは勢いよく顔を上げた。
「大変よろしゅうございました!」
「……はあ」
セバスティアンが眉を寄せる。
メイドたちは、赤く染まった主人の頬と、困惑する騎士を交互に見た。
エレオノーラは咳払いをする。
「それで、ディートリヒ」
「はい、お嬢様」
「呼び方です」
「呼称?」
「エレオノーラとお呼びくださいまし」
室内が、静かになった。
ディートリヒの背筋が伸びる。
メイドの一人が、隣のメイドの袖を掴んだ。
セバスティアンだけは、口を開きかけて閉じた。
あの病室で、主人はこの男を「ディー」と呼んでいた。
今度は、自分の名を呼ばせるという。
「……よろしいのですか」
「ええ!」
エレオノーラは頷いた。
推しに名前を呼んでもらえる。
せっかく本人が目の前にいるのだ。お願いするくらい、よいではないか。
ディートリヒは一度、視線を落とした。
それから、改めて彼女を見上げる。
「……エレオノーラ、様……」
ドンッッッ!
心臓が爆発した。
(い、いま……名前で呼ばれましたわよね?)
前世のホリスタでは、「君」、「貴女」、「お前」、「お嬢ちゃん」、「お姉ちゃん」。
キャラクターごとに違っても、用意された呼びかけだった。
画面にプレイヤー名が表示されても、声にまではならない。
自分の名前を。
あの人気男性声優と同じ声帯で。
(名前を呼ばれることなんて、ありませんでしたわ!)
今のセバスティアンですら、呼ぶのは「お嬢様」だ。
それなのに、この男は。
こちらを見て。
少しためらって。
一音ずつ、大切そうに。
(最高のファンサではありませんこと⁉)
「はぁん♡」
ばたり。
「お嬢様ぁぁ!」
今度はメイドが、倒れる先へクッションを差し込んだ。
「きさまぁぁ!」
「俺、何かしました!?」
「お嬢様が二度も倒れている!」
「言われたとおりに呼んだだけですっ!」
ディートリヒは立ち上がりかけ、ソファへ手を伸ばしかけ、セバスティアンに睨まれて両手を引っ込めた。
命を救ってもらった。
ようやく復帰できた。
その礼を述べ、改めて忠誠を誓うつもりだった。
まだ、誓い終わってもいない。
なのに主君が二度倒れ、執事に怒鳴られている。
「どうすればいいんですか、俺……」
メイドたちが顔を見合わせた。
「……お名前だけで」
「ええ……」
囁き合う二人の頬まで、なぜか赤い。
ディートリヒは助けを求めてセバスティアンを見た。
まだ睨まれていた。
─────
「……恐るべしURですわ……」
クッションに頬を埋めたエレオノーラが、ようやく声を発した。
ディートリヒが身を屈める。
「何の話です?」
「私にも分かりかねます」
セバスティアンが答えた。
顔。
声。
名前。
三連撃だった。
こちらの防御力では、到底耐えられない。
エレオノーラは震える手で扇を開き、熱い頬を隠した。
その向こうに、心配そうな灰青の瞳が見える。
また胸が跳ねた。
(これがURの力……!)
名前を呼んだだけである。
「最高レアは伊達ではありませんわ!」
ディートリヒは、ますます困った顔をした。
──なお、名前で呼ぶたびに倒れるので名前呼びは後日撤回された。
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