(79)
『そう』
女性は俺の手を握ってきた。
手のひらや甲に、何か傷がないかを確かめるように指で押したりなでたりしている。
『ここに包丁が刺さった、って言ってたわね』
『聞いてたんですか」
女性はうなずいた。
『もしそれが本当だったとしたら。これは直ったとかそういうレベルじゃないわね』
『お、俺が嘘ついてるって、そういうことですか? ウソなんかついてないです。あなた、精神科医かなにかですか? 俺がなんかしたって思ってるんですか?』
女性は首を振った。
『心配しないで。私は嘘だとは思ってないから。それと……』
俺は、胸が苦しくなって、ぎゅっと目を閉じた。
靴音が聞こえてくる。
ただしそれは軽やかなものではなく、一歩一歩、重苦しい、憂鬱な響きを伴うのものだった。
トーマスは慌てて監視カメラの映像を確認すると、急いで部屋を出て、その足音に近づいて行った。
「ピート、どうした!」
建物の外の階段を下りてきたピートは、両腕をだらりとたらし、うつむいていた。
指の先からは赤い血が止まることなく流れ続けている。
「ピート……」
トーマスは答えが返ってこないことを理解し、ピートを両腕で担ぎ上げた。
ピートは赤子のように、手足を縮め、まるくなった。
ピートを建物内に運び入れると、ベッドのある部屋に移動し、寝かせた。
手から血を流し続けているのをみて、トーマスは止血をし直すが、全く止まる様子がない。
「ピート、これはどうなっているんだ…… 血が、血が止まらない」
「カゲヤマ……」
「カゲヤマ、だって?」
ピートは目を閉じたまま、少しだけ頭を動かした。
「接触したのか」
ピートは言葉に反応して、同じように頭を動かした。
以前、ピートは言っていた。
『……エリーが失敗した原因は、カゲヤマに近づきすぎたことだ。だが俺は近づかない。周りから攻めて、奴が気が付かないうちに殺してやるよ』
なぜ、うまく行っているやり方を途中で変えるんだ…… トーマスは思った。自身が手を出さず、眷属とした第三者を利用してカゲヤマを陥れる作戦はうまく行っていた。そのまま決定的なところまで我慢すればよいものを。
「カゲヤマは、ドラキュラ・ヴァンパイア病に罹ったのか?」
悩んでいるようだったが、頭を縦に動かした。
もうベッドの端から血が染み出て、垂れていた。
「なら、奴に指示をだせ、屋敷を開けさせろ」
トーマスは自身で言っておきながら、それが無理だからこんな状態で帰ってきているのだ、と思った。ピートの支配を超えた力でピートを攻撃しているのだ。
「……」
何も言わなかったが、トーマスに直接話しかけてきた。
『カゲヤマに何かの病気をうつされた。俺を殺してくれ』
「ピート、お前、何言ってるんだ」
「いいから、ころして、くれ。油をかけて、焼いてくれ」
意味を直接伝えかけるのと、口で話すのとどちらが楽なんのかわからなかったが、ピートは声に出してそう言った。
「じ、自殺する、もっとはやく、自殺す、べきだった……」
目を閉じたまま、ピートはつぶやくようにそう言った。
ふと見ると、右手にぐるぐる巻かれていた止血用の包帯が血で流れていた。
なんだこれは、とトーマスは思った。
見ると、袖の部分もつぶれてしまって、まるで一本腕が抜けてしまったようだった。トーマスはピートの腕に触れようと、服の上から触った。
「うわっ……」
トーマスが触れた手は、袖の中にあったやわらかいゼリーのようなものを押しつぶしてしまった。
袖先から赤い血液がベッドへ勢いよく流れ出た。
「腕が……」
『そうだ。俺は生きたまま、液化してしまう』
顔は苦痛で歪んだままだった。ピートは脳に直接話しかけてきていたのだ。
「液化って、なにを言ってる?」
『早く、油をかけて、焼き殺してくれ。液化したら、意識を保ったまま、どこかに流れ出てしまう』
「何言って……」
バシャ、と弾けるような音がして、ピートの服が沈んだ。そして、ベッドから赤い液体が床一面に流れ出た。
靴や着ていた服は、ぺったりとベッドに張り付いたようになっている。頭だけがゆっくりと枕から、前に転がる。
『もう頭も形を保っていれない。この床の液体がどこかへ流れ去る前に、焼いてくれ、焼いて殺してくれ』
トーマスはぶるっと体を震わせた。
さっきより小さい音がすると、ピートの頭が弾けて赤い液体になった。
「ガソリン、灯油、なんでもいい。燃えるもの……」
トーマスは急いで納戸に駆け込んだ。
『俺はこの液体のまま永遠に世界をさまよいつづけることになる』
あの液体がどこかに出ていく前に、焼いてしまわないと。トーマスは油を見つけられず、別の部屋にあったロール紙をありったけ抱えてピートの部屋に入った。
「部屋ごと焼いてやる」
エリックが持っていたオイルライターで丸めた紙に火をつけ、ピートの部屋にある燃えそうなものにどんどん火をつけていく。
炎が上がると、炎がその周囲を乾燥させ、さらに燃え広がっていく。
この部分部分の小さな炎で、床全体に広がったピートを焼き切れるかは確信がもてなかった。しかし、トーマスは丸めた紙に火をつけ、燃えそうなものへ火をつけ続けた。
まぶしい。
俺はまぶしくて目が覚めた。
そこは何度か入っている病院の個室だった。
直接陽の光が当たっているわけではないのに、やけにまぶしく感じる。そして、息苦しい。
俺はベッドから起き上がって、カーテンを閉めた。
だが、息苦しさと言い知れない恐怖が消えない。外に何かいるのだろうか。俺は気になって、もう一つの厚いカーテンを閉めた。
ようやく少し心が落ち着いて、俺はベッドに戻った。
ウトウトと眠りかけた時、看護師が入ってきた。
「影山さん……」
赤井さんの声だった。
俺はその方を向いて、軽く手を上げた。
「起きていらっしゃいましたか。カーテンが閉まってるから、寝ていらっしゃるのかと」
「俺、どうやって病院に運び込まれたんです?」
赤井さんは、クリップボードに挟んだ紙に何か書き込みながら言った。
「救急車ですよ。いつものように冴島さんが付き添ってましたから心配なさらずに」
「……」
いつものように…… 俺はその言葉に引っかかって、病衣の上から自分の体を触ってみた。
胸に傷が…… 残っている。いつもなら、何事もなかったようになっているのに。




