494 AWOKE――覚醒――
アリスがアリスじゃなくなる。そんなチルフィーの言葉から、俺は自然と頭のなかで考えを巡らせていた。どういうことだろう? アリスは自分のことを『覚醒した』と表現したらしい。なにかあいつの中に眠っていた力が目覚めたということだろうか? どうやらショッピングモールに髪色が明るい紫の女の訪問があり、それがもたらされたようだ。それは誰なのだろう? まだここにいるのだろうか?
紫という色は、俺にあるひとつの出来事を連想させていた。それはこの異世界に帰還を果たし、北の大地で猛吹雪に見舞われたときのことだった。雪に埋もれて凍えていると、女の声が聞こえた。その声に従い、俺は遭難することなくサンクチュアルという街に辿り着くことができた。あのとき、俺は不思議と導いてくれる女の声を『紫色の紙飛行機』とイメージしていた。深い雪のなかを必死に掻き分けて進む俺を、少し先をゆっくりと飛びながら先導してくれる紫色の飛行機だ。柔和な老齢の女性が発する、親和的で温かみのある声だったように思う。そして、彼女は最後にこう言っていた。
『ひとつお願いがあります。いつか、ここに園城寺アリスを連れて来てくれないでしょうか? いつになっても構いません。私はいつまでも待ち続けることができます。けれど、待つことしかできない。お願いです、園城寺アリスをいつかここに連れて来て』
このことは、まだアリスには話していない。いつかあいつと北の大地を訪れたとき、何気なく連れて行ってみるつもりだ。助けてもらったとはいえ、やはり得体の知れない存在とアリスを引き合わせるなら用心しなければならない。こんな恩知らずの懐疑心にまみれた俺に嫌気がさして、彼女自らショッピングモールまで出向いたということだろうか? そして、それがアリスを目覚めさせてしまったのだろうか?
アリスはジャオンのフードコートの奥で背中を向けて座っていた。向かいの席には、俺よりだいぶ先に飛空艇から降りていたソフィエさんとユイリがいた。アリスは偉そうに腕を組んで、新たに仲間に加わったこの二人になにか講釈じみたものを垂れているようだった。それ自体はよくあるバカのいつもの光景だが、アリスの容貌が背後から見ても明らかにおかしいことがわかった。
「あら、あなたも戻ったのね。待っていたわ」、アリスは振り返ると、俺を見て不機嫌そうに鼻で笑った。それから大きく目を見開き、仇敵に挑むような顔つきで口を開いた。「まったく、男様はいつだって女を待たせるのが趣味みたいで、本当に嫌になっちゃうわ」
俺の知っているアリスは、もうそこにはいなかった。あんなに綺麗だった長い黒髪はバッサリ切られ、軽いモヒカンになっていた。例えるならザンギエフのようなモヒカンだ。髪色も目がチカチカするほどの蛍光色で、明るい紫色に変わっていた。よく見ると牛の鼻輪のようなピアスまで鼻の穴からぶら下がっている。
「お前……どうしたんだよその髪は……」と俺は言った。「え、まじかお前……引くわ……。それあれか? 頭の左右をバリカンで刈り上げちゃったのか!?」
「そうよ! 私にはもう女らしい美しい髪の毛なんていらないわ!」とアリスは目をひん剥いたまま俺に言った。「私は覚醒したのよ! これからこのアリス王国を多様性に満ちた正しい方向に導いていくわ!」
たしかに、アリスは目覚めてしまったようだ。LGBTQやらポリコレやらWokeやらのやっかいな活動家に。
「そっちの覚醒かよ!」と俺はショッピングモール中に轟くほど大きな声でツッコミを入れた。
*
俺はそれからリベラリズムやらキャンセルカルチャーやらアイデンティティー・ポリティクスやらを病的なまでに熱心に語るアリスから隙を見て逃げ出し(幸いソフィエさんとユイリがちゃんと話を聞いていたので、アリスは俺にあまり注意を払っていなかった)、チルフィーやクワールさんからアリスについて二三話を聞いてから、ジャオンのバックヤードにある和室の休憩室に向かった。靴を脱いで座布団をふたつに折り、それを枕にして畳の上に寝っ転がった。
あいつがバカだと知ってはいたが、まさかここまでとは思ってもみなかった。事の経緯はだいたいこんな感じだ。ハンマーヒルからの訪問者はどうやらお目覚め界隈の活動家で、アリスに色々と吹き込んだらしい。それを心の芯から真に受け、あんなことになってしまったようだ。いや、バカだからどうこうではなく、それだけアリスが純粋だったからかもしれない。なんせアリスはまだ十一歳の小学五年生なのだ。恣意的な大人の誘導を防げるほど成熟できていなくて当然だろう。まだ形も色も定まらない純白の綿に一滴の汚水を落とせば、容易にその性質を変えられてしまう。
活動家の女がまだショッピングモールにいれば文句の一つも言ってやりたかったが、アリスを唆してからすぐにハンマーヒルに帰ったらしい。死ビトの活性期である円卓の夜にそんなほいほいと移動できることは不思議でならないが、もしかしたらオパルツァー帝国から技術の提供やらなんやらがあったのかもしれない。月の欠片をマナに変換し、死ビトから察知されにくくする馬車。そんな利便性の高いものが帝国にはあるのだ。
いずれにせよ、紫色の紙飛行機を思わせる老婆の声とは関係がなかったみたいだ。アリスも放っておけばそのうち元に戻るだろうし、今日ぐらいはここでゴロゴロするのも悪くないかもしれない。ツゲヤからなにかDVDでも借りてきて、ゆっくり観賞といこうか? それともビイング・ホームで材料を調達して、DIYとしゃれ込もうか? ちょうど本棚が欲しかったところだ。出来合いのものを持ってくるより、自作したほうが少しは気分転換にもなるだろう。
「気分転換か……」と俺はポツリとつぶやく。そう、俺には気分をなんとか紛らわせる必要があるのだ。「俺はいつかソフィエさんを殺す……。彼岸花の、咲く場所で……か」
どうしてもあの魔導士の言葉を忘れることができない。ガルヴィンに対する予言が当たってしまったこともあり、より深くまで浸食されてしまった。先ほどもアリスから逃げてきたというより、本当はソフィエさんから距離を取りたかったようなものだ。俺は彼女を愛していると思う。今までの実ることのなかった恋愛とは違って、かなり真剣に。そして切実に……。だけど、もう近くにいることはできそうにない。物理的に離れてさえいれば、彼女の首を刎ねるなんて悪夢はそうそう起きることはないだろう。
まただ、と俺は思った。また飛空艇でうだうだと自室に籠っていた日々が繰り返されてしまう。「だけど仕方がないじゃないか」、と俺は独り言つ。呪いのような予言に捉われると、体が鉛のように重くなってしまうんだ。心が前を向こうとしなくなるんだ……。
しかし、ここは遥か上空の孤独な雲の上ではなかった。やかましいアリスのいるショッピングモールだった。案の定、バカがすぐに和室の戸を開けて無遠慮に入って来た。だがバックヤードに響いたのは以前のバタバタと走るうるさい足音ではなく、ウォーク運動の活動家っぽい気取った意味深長な音をしていた。
「帰って来てからそうそうに休めるなんて、家長制度の抜けない男様は良いご身分ね!」とアリスは目をこれでもかと見開いて俺に言った。「それに、私の話を全然聞かないのはどういうことかしら? 女の話なんて退屈で聞いていられないってことかしら?」
「なんだよ、ちゃんとした話なら聞くぞ? ってかお前、その髪の毛マジでどうするんだ……? 鼻ピアスだって、穴開けるの痛かっただろ?」
「このピアスは挟んでるだけよ! けれどちょっと鼻で息がしづらいから、今は取ることにするわ!」
「お前やっぱバカだろ……」
「それより」と言ってアリスは鼻ピアスを丁寧に外し、座布団に座った。しかし俺が上座にいるのが気に食わなかったらしく、無理やり俺の場所と入れ替わった。
「それより、あなたホモになってちょうだい」とアリスは言った。「今度ハンマーヒル主催の演劇大会に出場することになったの。だからあなたにもホモの役をあげるわ。けれど役だからといって、見せかけのホモでは駄目よ! 心の底から非の打ちどころのないホモになるのよ!」
やっぱりアリスは純粋だとか純白の綿とかではなく、ただの純然たるバカでしかなかったみたいだ。




