青磁色の水妖
宵もまだ浅い。流れ雨で濁る河から、鱗と藻に覆われた掌が伸び出て、中州に突き出た岩をつかんだ。続いて、水音を立てながら腕の主がゆっくりと岩上に這い上がる。男の上体が水面から上がるとその下は獣の前足が続き、胴、そして、後ろ脚のあとは魚のような尾が続いた。そのすべてを覆う鱗は、月に照らされ青磁色につやめく。もはや水草なのか髪なのかわからぬそれをかきあげ、水妖はゆっくりと岩のくぼみに獣の体を横たえた。今日の湍水は比較的穏やかである。とはいえ、水の音は遠い地響きのように鳴りやむことがない。慣れてはいても、こうして気になってしまうと眠るには時間がかかるのだ。水妖はずっしりと重く、水気を含んだ溜息をついた。
じゃり、と石を踏む音に、水妖は顔をあげた。ようやくまどろみかけたというのに。
「誰だ。出てこい」
低いが、若い声で水妖は誰何した。問いかけて数瞬、沈黙ばかりがあって、水妖が様子見に立ち上がろうとしたとき、ようやく応えが返ってきた。
「おじちゃん、怪物?」
子供の声。探してみれば、その声の主は岩陰から頭だけを出し、じっとこちらを見つめている。十に足りないような痩せた子供で、みすぼらしいその外見からでは男女の区別すらつきかねた。
「人を食べたりするの?」
問いはさらに投げられた。水妖は答えあぐねて、気だるげに尾で岩を撫でる。頭や服からびたびたと雫が垂れる。上の水のにおいがする。流れてきたのか。子供はそうやって問うわりに、怖じもせずこちらに歩み寄る。
「寄るな。もう食べる趣味はないが、あんまり邪魔なら食っちまうぞ」
答えてやると、子供はぴたりと足を止めた。
「やっぱり怪物なの? お父さんが言ってた、川下にはカハクっていう化物がいて、流れてきた人間をばりばり食べちゃうんだって」
子供の言葉に水妖は立ち上がり、岩の上から中州の砂利の上に降りる。子供に比べてその体は大きい。降りてきてようやく、子供は半歩後ずさった。
「流れてきたのか。死体ばかりかと思ったんだけどな」
岩の裏、中州の端に転がる人の体。日のあるうちから流れ着き、打ち捨てられたままになっている。こんな所だ、片付ける者もない。
「雨が降って、目が覚めたら水の中にいたんだ。……ねぇ、大水っておじちゃんがやってるの? おじちゃんは人を食べるから」
水妖はまた溜息をつく。自分でもわかる水の底の生臭いにおい。藻にまみれた頭を掻き、水妖は答えた。
「こんなでかい河をどうこうできたら、俺はこんな所に縛り付けられたりしねぇな。……おい、餓鬼。喰われにきたのか」
「違うよ、気が付いたらここにいたの」
「じゃあ、日が出たら岸に運んでやるから、その辺で寝てろ」
水も上がらないであろう別の石の上を指してやって、水妖は再び上へ蹴上がる。が、子供はそこを動こうとしなかった。
「どうした。大人しく寝るか、水に飛び込むかどっちかにしろ。俺は眠いんだ」
子供はじっとこちらを見つめて、じり、と岩に近寄る。
「ねぇ、おじちゃん。そっちで一緒に寝てもいい?」
答えを返す前から、子供はこちらに向かって足を踏み出した。不自然な方に曲がる左足を引きずりながら、その丸い目でこちらを見あげる。
「ね、おじちゃん」
「人のにおいがうつる。来るな、喰い殺されたいか」
「食べたら人のにおいうつらないの?」
水妖は憮然として、そっぽを向いた。
「……好きにしろ。ただ、触るな」
暗がりでもわかるほど、子供は嬉しそうに笑った。岩の根元の方に、動かない足を抱き寄せて体を丸める。
「ねぇ、おじちゃん。おじちゃんは悪いことをしたの? お父さんがね、カハクは河に捕まえられてるって言ってたの」
微かに腹の煮えるのを感じて、水妖は沈黙した。
「でも、大水もおじちゃんのせいじゃないし、ぼくを食べないでしょ」
「善いも悪いも、ずっと遠い話だ。……とっとと寝ろ。喰わなくても殺すぞ」
砂利の音を立てて、寝付けない下の小さい影が身をよじる。しばらくして、それが聞こえなくなって、水妖もようやく目を閉じたのだった。
善し悪しなど、未だに自分にも解らない。ただただ、時間ばかりがこんなにも過ぎてしまった。解らぬことが腹立たしい。解らぬままに生きるのも腹立たしい。そして、それを気に入らぬといって死ぬのも、やはり腹立たしく思うのだった。忘れようとした苛立ちを低い河鳴りにのせながら、水妖はまどろみに溶けていった。




