贄子
翌日、水妖は寝たままの子供を担ぎ、それを村に近い岸に投げ置いた。弾みで子供は起きたが、それに構わず水妖は早瀬の中に潜った。人には抗せぬ流れも、水妖には何の障害ともなりえない。近年、やたらに湍水は荒れる。水は前にもまして濁り、水は同じ河と思えぬほど上下する。だが、それでもまだ何の障りもない。生きるにも――科せられた勤めをこなすにも。
寝床のある大岩から僅かに下った、子供をおいた村近く。そこには湍水唯一の渡がある。どうにも滞る西の道の、その要は「河伯の渡」と呼ばれた。人に渡せぬ河の渡し守がその水妖だったのだ。進んでやっていることではない。贖罪の為、追わねばらなかった責だ。咎によって湍水に縛られた水妖を、繋囚の獣と侮る者もいれば、その長きにわたる生を河神と畏れる者もいた。
言葉のわからぬ振りをしてどんな言葉も流していた水妖は、都からの旅人の話に耳をそばだてた。曰く、西王と白虎とが死んだ、と。瞬間的に体が止まり、胴に掛けた綱が緩んだ。不意に底石にあたった船が大きく揺れ、船べりに波が砕ける。後ろから唾罵が聞こえてきて、水妖は再び引き綱を張った。王と神獣が絶えて、誰がこれを許すというのか。
夜。水妖はいつものように岩の上に体を横たえた。が、今日はまんじりとも眠れる気がしない。確かに、あの約束に直接王は関わらないが、刑の長短を左右するのは王だ。それが絶えた場合自分はどうなるのか。元々の罰どおり、このまま久遠の時を過ごせというのか。解らぬ。解らぬ。
突然に聞こえた石を擦る音に、岩に預けていた上体を起こす。癖のある足音と、覚えたばかりのにおい。小さな影が、岩陰にのぞく。
「餓鬼が、どうやって来た」
声に驚いたのか、足音は止む。
「お、おじちゃん。あのね……」
「帰れ。俺は、今虫の居所が悪いんだ。本当に喰っちまうぞ」
子供は岩の下に進み出て、こちらを見あげた。
「村で、おじちゃんの話を聞いたの」
「……帰れ」
「おじちゃんは、神様をうらぎったんだって。それで、人がいっぱい死んだんだって」
「帰れ!」
水妖は飛び降り、子供の首を掴みあげた。容易く持ちあげられた子供は、宙にその手足を揺らしながら、僅かにも抵抗しなかった。水妖の、水かきのある掌に塩気のある雫が伝う。
「帰るところなんて、ないよ」
掌に喉の震えが伝わって、水妖は静かに子供を下ろした。そのまましゃがみ込んだ子供は、水妖を見あげる。改めて見れば、曲がった足は昨日今日のものではない。濁った水で汚れた服は、不釣り合いに装飾されていた。色は白。国色を纏うのは、慶弔の時と決まっている。ならば。
「――贄子か」
「カハクが怒っているんだって。水が暴れるのは、カハクが怒っているからだって。だから、ぼくが河にいけばみんな大丈夫なんだって。……ねぇ、おじちゃん。おじちゃんは怒ってるの?」
涙はただ一筋だけ、砂利の隙間に落ちて河に吸い込まれていった。水妖はしばらく沈黙した後、静かに口を開いた。
「怒りなんぞぶつけたところでどうにもならん。河にも、お前にも」
水妖はだらりと腕を下ろし、砂利を踏みしめる。
「なんでまたここに来た。もう解ってるだろう、俺は人間なぞ喰わん」
子供はまともな方の足に力を入れて、よろめきながらも立ち上がる。
「……おじちゃんなら、一緒にいてくれると思ったの」
水妖はため息をついた。
「上がれ。近いうちに水がくる。ここもすぐ沈むぞ」
顔をくしゃくしゃにして笑って、子供は大岩に手をかけた。腕と片足だけで登ろうとするのを、水妖は先に登って引き上げてやった。岩の寝床に横たわった水妖の、獣の部分に子供はすり寄って体を丸める。
「おじちゃん、おじちゃんはどうして神様をうらぎったの?」
「裏切ったかどうか。戦いを終わらせたがっていたから、数を減らしてやったんだ。そうしたら、色んな奴らが怒りだした。未だに訳が解らん」
応えてやって子供を見やると、ぽかんと口をあけてこちらを見ていた。水妖は怪訝に眉を寄せる。目があって数瞬、子供は声を上げて笑いだした。
「神様に怒られたの?」
「ああ。その周りの奴に殺されそうになって、その時の西王が命とここの渡しとを引き換えにした。だから、減らした人間の命の数だけ、俺はずっとここにいる」
「どれくらい?」
「お前が何千回か生きられるくらいだな。その上、力を使うと身が焼けるらしい。まったく死ぬのも生きるのも大変だ」
水妖の湿った胴に頭をのせて、子供は小さく頷いた。
「やっぱり生きるのって大変なんだね」
乾かぬ掌で、それを撫でてやって水妖は応える。
「ああ。でも、やってみりゃわかる。思うよりは死ぬのも生きるのも簡単だ」
子供はうん、と応えて静かになった。ここまで近くなければ聞こえないほどのささやかな寝息。尾びれでその体を包んでやって、水妖もしばらくして眠りについた。




