第七話
湖の沖で拾った、あのでかい揺れ。
あれが何だったのか、しばらくはわからなかった。震覚が拾ったのは一回きりで、それからずっと湖は静かなままだったからだ。
気のせいってことにしておいた。
気のせいじゃなかったと知るのは、もう少しあとの話になる。
体を満タンに戻してから、震覚を湖に広げて、毎日の癖を読むことにした。
魚の群れは、たぶん朝と夕方に浅瀬へ寄ってくる。蟹は相変わらず岩場を行ったり来たりしてて、水の底では細長い何かが泥の中でじっとしている。
その中に、妙な揺れが混じっていた。
ぷるん。ぷるん、ぷるん。
跳ねるでも泳ぐでもなく、水の中をゆっくり漂いながらときどき体を震わせている。形が定まらなくて、丸くなったり伸びたり平たくなったりしている。
熱感知を向けてみると、ほんのり温かい小さな灯りが、浅瀬の少し先に十かそこら浮かんでいた。
形がない。
……え、俺と同じじゃね?
近づいてみた。
浅瀬の底をずるずる這って、震覚でそいつらの揺れを追う。
一番手前にいたやつが、俺に気づいたらしい。漂う向きが、ゆっくりこっちに変わった。
近づいてくる。
で、体を広げて覆いかぶさってきた。
おいおいおい、それ俺がいつもやってるやつ!
〈HPが減少しました。HP:33→31〉
表面がじわっと溶かされる。俺の溶解よりずっと薄い、弱い酸だ。
こいつも喰うのかよ! 形がなくて包んで溶かして喰うって、俺と同じ生き方じゃないか。
でも包まれながら気づいた。
こいつには、何もない。
迷いも怖さも、飢えすらはっきりしない。触れたものをただ包む。考えて動いてるわけじゃなくて、水が低いほうへ流れるのと同じ理屈で、そういうふうに動いてるだけだ。
〈溶解を発動します。MP:7→6〉
俺の酸のほうが、ずっと濃かった。
包もうとしてた薄い体が逆にぐずぐず崩れていく。抵抗らしい抵抗もなく、ぷるんと一回震えて、すぐに動かなくなった。
喰掠の理。
味は、ほとんどしなかった。
水っぽくて、ちょっとぬるい。喰ってるっていうより、ぬるい水を飲んでる感じだ。
流れこんでくる声も、なかった。
甲虫にも盲鼠にも蛇にも、魚にさえ何かしらの声はあったのに、こいつからは何ひとつ流れてこない。
ただ、熱い塊だけがほどけた。
小さいのに、ほかのどの獲物とも違う熱さだった。溶けた瞬間、俺の中の何かとぴたっと重なった。
〈捕食を完了しました〉
〈対象:水粘体 Lv2〉
〈経験値8を獲得しました〉
〈経験値8を取得しました〉
〈レベルが上昇しました。Lv5→Lv6〉
〈同系統の個体を捕食しました〉
〈霊核の密度が上昇しました〉
霊核?
初めて聞く言葉だ。でもすぐにピンときた。喰うたびにほどけてたあの熱い塊のことだ。甲虫にも盲鼠にも蛇にもあって、今この粘体の中にもあった。
あれが、霊核か。
生き物の芯なんだろう。喰うと、それが俺の中でほどけて俺のものになる。
で、同じ系統のやつの霊核はほどけずに、俺の霊核にそのまま重なる。
密度が上がる、と。
意味はまだよくわからないけど、今までの捕食とは何かが違うのははっきりわかった。
それからもうひとつ。
経験値8を獲得。経験値8を取得。
……転送の一行がない!
8の一割は0.8で、切り捨てたらゼロ。小さい獲物からは取れないってことか?
取れないのか取らないのかは知らないけど、誰が抜いてるにしろ、あいつにも取りこぼしはあるってことだ。
ざまあみろ。
ちょっとだけ、すっとした。
二匹目に近づきながら、共食いって言葉が浮かんだ。
同じ系統で、同じ形で、同じ生き方をしてるやつを喰う。
盲鼠の巣のときと同じで、体が止まるかと思った。
止まらなかった。
こいつらには何もないからだ。帰る巣もないし、待ってる子もいないし、流れこんでくる声もない。
俺と同じもののはずなのに、俺とは全然違う。
じゃあ、なんで俺には、あるんだ?
考えて、ぞくっとした。
俺には声も考えも前の世界の記憶もあるし、胸の穴だってある。こいつらには、そのどれもない。
腐肉の粘体。システムは俺をそう呼んだ。でも本当にそうなのか? 俺と同じ粘体が、ほかにもいるのか? それとも――
生まれたときの、あの一行を思い出す。
個体の登録に失敗しました。
……やめだ、やめ。考えても答えは出ない。
今は喰え。
二匹目も三匹目も、ほとんど抵抗しなかった。包もうとしてくるのを濃い酸で押し返して、崩して、喰う。
〈溶解を発動します。MP:6→5〉
〈溶解を発動します。MP:5→4〉
〈同系統の個体を捕食しました〉
〈霊核の密度が上昇しました〉
〈技能の解析を開始します〉
〈対象技能:水化Lv1――解析成功。技能【水化】を獲得しました〉
水化。
意識を向けると、体の一部がすうっと透きとおった。柔らかくなるっていうより、形そのものがほどけていく感じだ。
試しに、浅瀬の小石の隙間に体を流しこんでみる。
するっと通った!
今までも狭いところには潜りこめたけど、水化した体は砂粒と砂粒のあいだにまで染みこんでいく。ほぼ水だ、これ。
面白いな、おい!
四匹目を喰ったところで、残りの粘体たちがゆっくり俺から離れていった。
逃げてる感じはしない。漂う向きが変わっただけで、怖がってるわけじゃない。そういうふうに流れてるだけだ。
〈溶解を発動します。MP:4→3〉
〈同系統の個体を捕食しました〉
〈霊核の密度が上昇しました〉
四回、霊核の密度とやらが上がった。
数字には出てこない。でも体の芯のあたりが少しずつ重く固く詰まっていく感じがする。
浅瀬に戻って休みながら、喰った四匹のことを考えた。
同じ形で同じやり方で、何も考えずに漂ってたやつら。俺が近づいても逃げないし、仲間が喰われても気にもしない。
あれが本来の粘体なんだろう。
じゃあ、俺は何なんだよ。
答えは出ない。胸の穴に、隙間風が吹く。
――おかえり。
あの声は、誰に向かって言ってたんだろうな。
そのとき、震覚がびくっと跳ねた。
湖の沖の、ずっと遠く。前に一度だけ拾った、あのでかい揺れだった。
今度は一回じゃ終わらなかった。
ぐうん、と湖の底から持ち上がってくる低くて長い揺れ。震覚だけじゃなく聴音にも、水そのものが鳴る重たい音が届く。
浅瀬に寄ってた魚の群れが、一斉に散った。
蟹が岩の隙間に逃げこんだ。
離れていった水粘体たちが、ゆっくりと、でも確かに浅瀬のほうへ流れてくる。
熱感知を沖へ向けた。
何もない。冷たい水だけだ。
……いや、待て。
冷たい水の中に、ほんのわずかにぬるい場所がある! とんでもなく広い。浅瀬ひとつぶんどころじゃなく、湖の沖の一角がまるごと、ぼんやり温かい。
その温かい場所が、動いた。
水面が、音もなく盛り上がっていく。
逃げ遅れた魚の群れが、その中にすうっと吸いこまれて消えた。
透きとおっていて、水と見分けがつかない。形なんかない。
でも熱感知の中で、その真ん中にひとつだけとんでもなく大きな熱い塊が脈を打っていた。
湖そのものが、動いた。
本気でそう思った。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:6/10
HP:32/36
MP:5/8
攻撃:8
防御:5
敏捷:6
魔力:6
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv3、硬殻Lv3、聴音Lv2、熱感知Lv1、震覚Lv1、水化Lv1
さっき喰った四匹は、あれのかけらだったのかもしれない。
あれも俺と同じで、形がなくて包んで溶かして喰うやつだ。
ただ、大きさがまるで違う。
沖で盛り上がった水が、ゆっくり湖の中に沈んでいく。熱い塊が、冷たい水の底へ遠ざかっていく。
俺は浅瀬の砂に体を押しつけたまま、しばらく動けなかった。
喰えるのか、あれを。
そう考えた自分に、自分でびっくりした。正気か、俺?




