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第三十話

島の上で、ハクが寝息をたてている。


俺は島のまわりの深みに沈んで、冷たい水の中で体を休めていた。HPもMPも満タンで、片耳の群れは今夜は来ていない。


静かな夜だった。


静かな夜にはときどき前の世界のことが浮かんでくる。


今夜浮かんできたのは、煙草の匂いだった。



雨が降っていた。


駅前の雑居ビルの二階で、階段の下に色の剥げた看板が出ていた。「烏」と一文字だけ書いてある。


俺はその看板の前で十分くらい立っていた。


求人の貼り紙を見たのは、三日前だ。「メンバー募集 未経験可 時給高め 夜勤あり」。


夜勤という字を、何度も読み返した。


階段を上ると、ドアの向こうから牌をかき混ぜる音が聞こえた。じゃらじゃら、じゃらじゃら。それから煙草の煙と、古い畳と乾いた紙と、誰かの缶コーヒーの匂い。


ドアを開けると、カウンターの奥に男が一人座っていた。


六十くらいの痩せた男だった。白髪まじりの頭を短く刈って、くたびれたカーディガンを着ている。


顔は――


思い出そうとすると、そこだけ煙がかかったようにぼやける。


「なんだ、客か」


「いえ、あの、求人の」


「ああ」


男は俺の濡れた髪と着古したジャンパーと安物のスニーカーを、上から下まで眺めた。


「いくつだ?」


「十九です」


「学生か?」


「……辞めました。先月」


男はふうんと鼻を鳴らして、それ以上は聞かなかった。


「打てるのか?」


「ルールくらいは」


「ルールくらいは、な」


男は立ち上がって、空いている卓を顎でしゃくった。


「座れ。一回打ってみろ」



その卓には煙草をくわえた中年の男と競馬新聞を広げた爺さんが座っていた。男が三人目に入って、俺が四人目だ。


結果は、ぼろぼろだった。


配られた手が悪かったわけじゃない。俺の打ち方が悪かった。


いい手が来れば突っこんで、悪い手が来れば縮こまる。相手が何を待っているかなんて考えもしなかった。自分の手のことしか見ていなかった。


半荘が終わったとき、俺はひとりだけ大きくへこんでいた。


「……すみません」


「謝るこたねえよ。金賭けてねえんだから」


男は牌を崩しながら、こっちを見もせずに言った。


「お前、自分の手しか見てねえだろ」


図星だった。


「麻雀ってのはな、四人でやるもんだ。自分の手がいいか悪いかなんて半分も関係ねえ。相手がどんな手で、何を待ってて、どこで焦ってるか。それを見るのが残りの半分だ」


「……はい」


「それとな」


男は、ようやく顔を上げた。


「お前、さっきから卓のせいにしてるだろ」


「え」


「配牌が悪い、ツモが悪い、座った場所が悪い。顔に書いてある」


……書いてあったのか。


「うちで働くなら、卓は選べねえぞ。メンバーってのはな、空いた席に座るのが仕事だ。嫌な客の卓でも荒れた卓でも、呼ばれたら座る」


男は煙草に火をつけた。


「卓を選べねえなら、卓を作れ」


「作る……?」


「どんな卓に座らされても、自分の打ちやすい卓に変えちまえってことだ。相手の癖を読んで流れを――いや、流れなんてもんはねえか。相手の焦りを読んで、こっちの間合いに引きずりこむ。それができるようになったら、どの席に座っても負けねえ」


俺は、黙ってその言葉を聞いていた。


意味は、半分も分からなかった。



「で、なんで夜勤なんだ?」


煙を吐きながら、男が聞いた。


「時給が、いいんで」


「金がいるのか?」


「……妹がいて」


口に出すつもりはなかったのに、出てしまった。


「親が先月。それで大学辞めて。妹が高校出るまでは、なんとかしないと」


男は、しばらく黙っていた。


長く伸びた煙草の灰が、ぽとりと灰皿に落ちた。


「妹、いくつだ?」


「十一です」


「名前は?」


「――です」


自分で言ったはずの名前が、そこだけざらざらしたノイズに覆われて聞こえない。


男は「そうか」とだけ言った。


「明日から来い。夜十時から朝六時。最初は時給安いぞ」


「え、あの、さっきの打ち方で……」


「打ち方は教える。教えられねえのは、そういうのだ」


「そういうの」が何を指していたのか、そのときの俺には分からなかった。


男はカウンターの下から何かを取り出して、俺に放った。


缶コーヒーだった。まだ温かかった。


「帰りに、裏の猫に餌やってけ。俺は腰が痛え」



店の裏の路地には、痩せた三毛猫がいた。


男から渡された煮干しの袋を開けると、猫は警戒しながら寄ってきて俺の手から一本くわえていった。


雨は、もう上がっていた。


濡れたアスファルトに、ビルの看板の明かりがにじんでいた。


家に帰ると、狭いアパートの電気がついていた。


ドアを開けると、小さな誰かがばたばたと奥から走ってきた。


――おかえり! 遅かったね。


声だけが、はっきり聞こえた。


顔は、やっぱり見えなかった。



深みの冷たい水の中で、俺はしばらく動けなかった。


卓を選べねえなら、卓を作れ。


島と深みと隠した穴と水の中の道。俺が何日もかけて作ったものは、あの夜に言われたことそのままだった。


覚えてなかったのに。


体のほうが、覚えていた。


――……。


底のほうでガロが小さく唸った。何か言いたそうなのに言葉にならない唸りだ。


「……なんだよ」


――お前にも、群れがいたのか。


群れ。


あの店とあの男と、狭いアパートの小さな誰か。


「……いた、んだろうな。たぶん」


――そうか。


ガロは、それきり黙った。



そのとき、震覚が岸の揺れを拾った。


足音だ。いくつも。


片耳の群れが、岸に来ていた。


熱感知を向ける。七つの灯り。いつもの水を飲む場所じゃなく、湖の岸をゆっくり歩きまわっている。


地形が変わったのに気づいたんだ。


片耳が先頭で鼻を低くして、浅瀬の縁を嗅いでいく。


一頭の若いのが片耳を追い越して浅瀬に降り、隠した穴のひとつに向かってまっすぐ――おい、そこだ!


片耳が、唸った。


若いのが、ぴたりと止まった。


片耳は若いのを押しのけて、自分で穴のあたりの泥を前脚で軽く叩いた。


ぴちゃ、ぴちゃ。


泥の下が柔らかいことを、確かめるように。


それからゆっくり顔を上げて、島の上で眠っているハクと、島のまわりの深い水を見た。


片耳は、しばらくそうしていた。


やがて群れを連れて、岩場の向こうへ引いていった。


一頭も、穴には落ちなかった。


【ステータス】

個体名:ヴォイド

種族:腐肉の粘体

段階:1

レベル:15/15

HP:156/156

MP:27/27

攻撃:25

防御:19

敏捷:20

魔力:18

固有スキル:喰掠の理(グラトニー)、変質者(アルケミスト)、■■■

スキル:溶解Lv5、硬殻Lv4、熱感知Lv2、震覚Lv2、水化Lv3、水弾Lv3、匂い写しLv6、吸血Lv2、反響感知Lv2、噛砕Lv4、威圧Lv1


……読まれてるな、全部!


卓を作っても、相手が座ってくれなきゃ意味がない。


あの男なら、こういうとき何て言うだろう。


たぶん煙草をくわえたまま、こう言う。


――座らねえ客は、座りたくなるようにしてやれ。


島の上で、ハクが寝返りを打った。


俺はその寝息を聞きながら、次の手を考えはじめた。


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