第二十九話
片耳がくぼみの岩にかけていった苦くて焦げた鉄くさい匂いは、一晩たっても消えなかった。鼻をつけなくても分かるくらい濃い。
ハクはそのくぼみに二度と入ろうとしなかった。入口の前まで来ると足を止めて、尻尾を股のあいだに挟んで俺の体の陰にもぐりこむ。
「……ここ、もう、だめ、だな」
ハクがくうんと鳴いた。だよな、俺もそう思う。
くぼみの代わりを探さなきゃいけない。
条件は分かっている。片耳の鼻も牙も届かなくて、ハクが外の空気を吸える場所だ。
浅瀬を這いまわって湖の岸をぐるっと一周しながら、反響感知で地形をなぞる。岩場も砂地も崖も、狼の脚なら簡単に来られる場所ばかりだった。
……ないなら、作るか。
蜘蛛が自分の網を張るように、俺も自分の卓を作りたいと、湖の主のときに思った。あのときは作る道具がなかったけど、今はある。
岸から少し離れた浅瀬に、大きな岩が突き出しているところがあった。
岸とは狼の体ひとつぶんくらいの砂の帯でつながっていて、岩の上は平らで乾いている。ハクが丸くなって寝るにはちょうどいい広さだ。
この砂の帯を、なくしてしまえばいい。
岩を島にして、まわりを狼の脚が届かない深さの水で囲むんだ。
片耳は浅瀬なら平気で入ってくるけど、底のない深みには入ってこない。崖の縁で止まったのは、この目で――目はないけど――ちゃんと見た。
砂の帯の上に、体を薄く広げた。
〈溶解を発動します。MP:27→26〉
じゅわっ。
砂が溶けて崩れて、水に流れていく。岩喰い蜥蜴から奪った力が混じっているおかげで、砂の下の岩までぐずぐずと削れていく。
〈溶解を発動します。MP:26→25〉
〈溶解を発動します。MP:25→24〉
一回で削れるのは、俺の体の厚みくらいしかない。
……これ、何回やればいいんだ?
結論から言うと、すごく何回もやった。
溶かして、MPが尽きたら休んで、また溶かす。
ハクはそのあいだ岸の砂の上で俺の作業を見ていて、最初は首をかしげていたけど、そのうち飽きて寝た。起きてはまた見て、また寝る。
「みて、ろ。すごい、の、できる、から」
わふっ。
たぶん「早くしろ」だ。
二日目に、砂の帯がなくなって、岩と岸のあいだに水が流れこんだ。
まだ浅くて、狼なら脚が濡れるだけだ。三日目にもっと深くして、四日目にさらに深くした。
〈溶解の熟練度が上昇しました。溶解Lv4→Lv5〉
おっ!
溶かす速さが目に見えて上がって、削れる量が一回で倍くらいになる。
五日目には岩のまわりの水の底が、震覚でも測れないくらい深くなっていた。
島の完成だ。
問題はハクをどうやって島に渡すかだった。
……そこまで考えてなかった!
ハクは岸の砂の上で水と島と俺を順番に見て、それから俺の顔を見た。顔なんかないけど。
「……すまん」
くうん。
体を広げて、前に巣穴から連れて帰ったときと同じように硬殻で台を作り、ハクを上に乗せた。
〈MP:14→13〉
そのまま水に入る。
ハクがびくっと体を固くして、俺の体の上で四本の脚をぴんと突っ張った。
「だい、じょぶ。おちない」
体を平たく広げて水の上を浮かぶように進むと、ハクを乗せた台がゆらゆら揺れる。
島に着いて、岩の上にハクを下ろした。
ハクは岩の上をくんくん嗅いでまわって隅々まで確かめてから、真ん中でぺたんと座った。
尻尾がぱたぱたと岩を叩く。……気に入ったらしいな!
島だけじゃ足りない。
片耳は賢いから、島に渡れないと分かったら、俺がハクに魚を運ぶときを岸で狙うだろう。深みの縁で止まるとはいっても、いつか泳いでくるかもしれない。
だから、岸のほうにも仕掛けを作った。
浅瀬の何か所かを溶解で削って穴にして、その上に溶かした砂と泥を薄く戻し、見た目は普通の浅瀬にしておく。
狼の脚で踏めば、ずぼっと沈む。
沈んだ先には、俺がいる。
試しに、岸の蟹で確かめた。いつもの歩き方で浅瀬に降りてきた蟹が、隠した穴の上で、ずぼっと沈む。じたばたする蟹を、穴の底で待っていた俺がそのまま包む。
よし、使える!
……と、喜んだのも束の間だった。
島から戻ったついでに岸でハクを遊ばせていたら、ハクが浅瀬の水たまりを追いかけて、とことこ穴のほうへ歩いていった。
「ま、まて! そこ、だめ!」
ハクは止まらない。むしろ俺の声に振り返って、わふっと鳴いて、跳ねるように前に出た。
前脚が、穴の上の泥を踏む。
ずぼっ。
「ハクッ!」
沈みかけたハクの体を、穴の底から慌てて押し上げた。泥だらけのハクが岸に転がり出て、ぶるぶるっと体を振る。泥が俺にまで飛んできた。
ハクは、しばらくきょとんとしていた。
それから楽しそうに尻尾を振って、また穴のほうへ行こうとした。
「だから、だめだって、言ってんだろ!」
自分で掘った罠に、守りたいやつが落ちかける。……設計のやり直しだな、これ。
結局ハクが遊ぶ岸の近くには穴を作らないことにした。穴は狼が通る道の上にだけ。ハクには島の上だけで遊んでもらう。
〈MP:13→11〉
それから湖の岸から島の裏へ、水の中を通る細い水路も掘った。俺だけが通れる道で、岸のどこにいても水の中を通って島に戻れる。
〈MP:11→9〉
何日もかけて、湖の浅瀬を少しずつ作り変えていった。
全部終わったころには、湖の地形はすっかり変わっていた。
島と、まわりの深みと、浅瀬のあちこちに隠した穴と、水の中の細い道。
反響感知で全体をなぞって、返ってくる形を頭の中で並べた。
――悪くない。
ガロの声だった。珍しく褒めてるじゃないか!
「……だろ?」
――悪くない。だが、あいつは来る。
分かってるよ。くぼみの岩に匂いをかけたあいつは、必ず来る。だったら、来るのを待ってるだけじゃ駄目だ。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:15/15
HP:156/156
MP:9/27
攻撃:25
防御:19
敏捷:20
魔力:18
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv5、硬殻Lv4、熱感知Lv2、震覚Lv2、水化Lv3、水弾Lv3、匂い写しLv6、吸血Lv2、反響感知Lv2、噛砕Lv4、威圧Lv1
島の上で、ハクが丸くなって寝ている。
俺は島のまわりの深みに沈んで、岸の気配を聞いていた。
片耳の群れは七頭。進化に必要な餓狼は、あと六。
この卓は、俺が作った卓だ。
ここに座らせて、一頭ずつ、こっちの手で落としていく。
今度は、こっちから仕掛ける番だ。




