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第二十八話

戻らないと! 岩の陰から抜け出して、湖へ向かった。


遅い、とにかく遅い。敏捷18は生まれたときの十八倍だけど、狼の脚とは比べものにならない。片耳がその気になったら、俺が湖に着くより先に、あのくぼみに鼻先を突っこんでいる。


焦ったときの一打はだいたい悪い、と自分に言い聞かせる。でも今は焦るなってほうが無理だった。



岩場を抜けて、湖の岸が見える――反響感知が返してくる――ところまで来た。


熱感知を向けると、くぼみの奥に小さな灯りがひとつあった。ハクだ。まだ丸くなっている。よかった……。


片耳の群れはまだ岸には来ていない。でも震覚が地面の揺れを拾う。たくさんの足音が、岩場の別の道から、ゆっくり湖へ近づいてくる。


俺は浅瀬に飛びこんで、水の中を滑るようにくぼみの近くまで移動した。


〈MP:25→24〉


水の匂いをまとい直す。



群れが岸に現れたのは、いつもの水を飲む場所じゃなく、ハクのいるくぼみから少し離れた水際だった。


片耳が先頭にいて、その後ろで二頭の若い雄が何かを引きずっている。狼だ。一頭の雌の首筋をくわえて引きずってくる。雌は生きていた。後ろ脚の付け根から血を流していて、立てないらしい。群れ同士の争いのとき、片耳の群れの側で怪我をしたやつだろう。


二頭は雌を水際に放り出した。雌はか細く鳴いて、立ち上がろうとして崩れ落ちる。血の匂いが岸いっぱいに広がっていく。


それから群れは片耳を先頭に岩場の陰へ引いていって、水際には血を流した雌が一頭だけ残された。……なんだ、これ?



――罠だ。


ガロの声が、はっきりと言葉で聞こえた。


――あいつは、そうやって、喰う。


頭の記憶がぼんやり浮かんでくる。昔、境目で睨みあったときのこと。片耳は自分の群れの弱ったやつを、わざと境目に放り出した。頭の群れの若いのが、その獲物に飛びついた。岩陰から、片耳の群れが襲いかかった。


あの雌は餌なんだ。湖の中にいる「何か」を、水際におびき出すための。


片耳は知ってるんだ。この湖の中に、水際の狼を引きずりこむやつがいることを。前の頭の群れが何頭もやられたことを。


だから餌を置いて、俺が喰いつくのを風下の岩陰から待っている。



震覚で、岩陰を探る。


いた! 岸の岩陰に七つの灯りが伏せて、息を殺している。風は湖から岸へ吹いていて、俺の匂いは向こうに届くけど、向こうの匂いは俺に届かない。


前の頭と同じ手だ。いや、自分の仲間を餌にしてるぶん、前の頭よりえげつない。


さて、どうする? 降りるか? 喰いつかなければ何も起きない。雌は水際でそのうち死ぬ。片耳の群れは待ちくたびれて帰る。


でも、それで終わりじゃない。片耳はハクの匂いを嗅ぎつけている。餌に喰いつかなかったら、次はたぶん、くぼみを直接襲う。


それに、あの雌は生きた餓狼だ。喰えば、進化に必要な十二のうちの六になる。


――……。


ガロが、黙った。



押す、と決めた。ただし、あいつの卓には座らない。


餌がある水際は、半分は俺の卓だ。


喰いつくのは一瞬でいい。喰いついたら、すぐに雌ごと水の中へ引きずりこむ。群れが岩陰から飛び出してきても、あいつらは水に入れない。前の頭の群れと同じように、水を怖がっている――はずだ。


はず、か。嫌な言葉だな。



水の中を、雌のいる水際へ近づいた。


雌が気配に気づいて首をもたげ、怯えた様子でこっちの匂いを嗅ぐ。逃げようとして、また崩れた。


ごめんな。


水際から一気に体を伸ばして、硬殻で雌の体に巻きつく。


〈MP:24→23〉


引く! 雌の体がずるずると水に引きずられた、その瞬間に岩陰が爆ぜた。


七つの灯りが、一斉に飛び出してくる。


速い。でもこっちのほうが早い。雌の体はもう半分水に浸かっていて、あと少しで――


ほかの六つが水際で足を止めたのに、一つだけが止まらず、ばしゃっと浅瀬に飛びこんできた。片耳だ!



がぶっ!


〈HPが減少しました。HP:146→112〉


っ……! 雌に巻きついている俺の体を、片耳が噛みちぎった。


なんでだ! 水が怖くないのか?


片耳は浅瀬の中で、ためらいもなくもう一度牙をむいた。


――知っている。


ガロの声。


――あいつは知っている。水の中のものが小さいことを。


……ああ、俺の匂いか。


前の頭を喰った晩、片耳の群れは岸の匂いを嗅いでいた。腐った肉の匂い。湖の主の匂いじゃない。小さくて、腐った、何かの匂い。


片耳はそこから読んだんだ。湖の中にいるのは、でかい主なんかじゃないって。


硬殻を張り直す。


〈MP:23→22〉


片耳の後ろで一頭の若い雄が、片耳の真似をしておそるおそる浅瀬に脚を入れた。


がぶっ。


〈HPが減少しました。HP:112→95〉


二頭に噛まれた。まずいまずいまずい!


水化!


〈MP:22→21〉


噛まれていた体を透きとおらせて牙のあいだからすり抜け、残りの体を全部雌に巻きつけて深みのほうへ引っぱる。


片耳が浅瀬の水を蹴散らして、まっすぐに追ってくる。


〈HPが減少しました。HP:95→70〉


背中を噛まれた。でも離さない。境目の崖はすぐそこだ!


俺は雌ごと、崖の向こうへ転がり落ちた。



片耳は崖の縁で止まった。前の頭と同じで、底のない深みには入ってこない。崖の縁から唸りもせずに、じっとこっちを見下ろしている。前の頭みたいな怒りはなくて、値踏みしている目だった。



深みの冷たい水の中で、雌を喰った。


〈溶解を発動します。MP:21→20〉


雌はもうほとんど抵抗しなかった。


〈溶解を発動します。MP:20→19〉


噛砕の牙で首筋をとらえる。


〈MP:19→18〉


喰掠の理(グラトニー)。


流れこんできたのは絶望だった。


――どうして。


群れのために戦って、噛まれて脚が動かなくなっても、群れについていこうとした。


片耳が近づいてきたとき、喰われると思った。でも喰われずに、首をくわえられて引きずられ、水際に捨てられた。


――どうして。わたしは、群れの。


噛み砕きながら思った。片耳は喰うよりもっとひどいことをしたんじゃないか?


〈捕食を完了しました〉

〈対象:餓狼 Lv7〉

〈経験値70を獲得しました〉

〈うち7は上位領域へ転送されました〉

〈経験値63を取得しました〉

〈レベルが上昇しました。Lv14→Lv15〉

〈レベルが上限に達しました〉

〈これ以上の経験値は、進化するまで蓄積されません〉

〈能力値を吸収しました〉

〈技能の解析を開始します〉

〈対象技能:嗅覚Lv3――解析成功〉

〈技能【嗅覚】は保有技能【匂い写し】と同系統です。自動で統合します〉

〈匂い写しLv5→Lv6〉

〈対象技能:噛砕Lv2――解析成功〉

〈技能【噛砕】は保有技能【噛砕】と同一です。自動で統合します〉

〈噛砕Lv3→Lv4〉

〈系統の記録を更新しました。餓狼:6〉


上限、か。進化するまではどれだけ喰ってもレベルは上がらない。進化に必要な餓狼十二のうち、今は六。ちょうど半分だ。


それなのに、片耳の群れには、まだ七頭いる。


【ステータス】

個体名:ヴォイド

種族:腐肉の粘体

段階:1

レベル:15/15

HP:85/156

MP:19/27

攻撃:25

防御:19

敏捷:20

魔力:18

固有スキル:喰掠の理(グラトニー)、変質者(アルケミスト)、■■■

スキル:溶解Lv4、硬殻Lv4、熱感知Lv2、震覚Lv2、水化Lv3、水弾Lv3、匂い写しLv6、吸血Lv2、反響感知Lv2、噛砕Lv4、威圧Lv1


深みからそっと浮かび上がって岸を探ると、片耳の群れは岸を離れていくところだった。いや、片耳だけがまだ残っている。ハクのいるくぼみの前に!


心臓が――霊核が、凍りついた。


片耳はくぼみの入口に鼻を近づけて、長いあいだ嗅いでいた。中でハクがきゅう、と怯えた声で小さく鳴く。


片耳は中には入らずに、くぼみの入口の岩に片脚を上げて自分の匂いをかけた。それからゆっくりと振り返って、俺のいる湖のほうを見た。


――次は、こいつだ。


言葉なんかなくても、そう言っているのがわかった。


片耳は群れのあとを追って、岩場の向こうへ消えていった。


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