第二十七話
ハクの後ろ脚は少しずつよくなっていった。
五日目には怪我した脚の先をちょんと地面につけるようになった。七日目には四本の脚でよたよた歩いた。転んで、起き上がって、また転ぶ。それでも、四本で歩こうとする。
「ハ……ク。むり、すん、な」
体を震わせて出す声は、まだひどいもんだった。一語ずつ区切らないと形にならないし、どうしても濁る。
それでもハクは俺が声を出すと耳をぴんと立てて、こっちに寄ってくるようになった。
意味が通じてるのかは知らない。たぶん音がするから寄ってくるだけだ。
それでいい。
八日目に、岸の向こうから少し苦くて焦げた匂いが流れてきた。隣の群れだ。
ハクがぴくっと顔を上げた。鼻をひくつかせて、それから俺の体の陰にもぐりこんでくる。小さな体がかたかた震えていた。
覚えてるんだ。この匂いが巣穴を襲った晩の匂いだって。
「だい、じょぶ、だ」
震える体を、上からそっと覆った。
――……。
底のほうで、ガロが低く唸った気がした。言葉にはならない、腹の底からの唸り。
お前も覚えてるか? こいつらに副を殺されたこと。……いや、殺させたのは俺なんだけどな。
岸の匂いを、浅瀬の底から嗅いだ。
匂い写しは嗅ぎ分ける力も上がっている。頭の嗅覚を取りこんでから、匂いの一本一本が前よりずっとくっきりしていた。
一頭、二頭、三頭……と数えていく。若い雄の匂い。年寄りの匂い。雌の匂い。少し血の匂いが混じっているやつ。
九頭。頭の群れの倍近いじゃねえか!
その中に、ひときわ強い匂いが一つあった。
苦くて、焦げていて、それから鉄っぽい。血の匂いが体の奥まで染みついている。
あいつが、向こうの頭か。
ハクを岩のくぼみに隠した。
匂い写しで、くぼみのまわりに湖の水の匂いを薄く撒く。ハクの匂いが外に漏れないように。
〈MP:25→24〉
「ここ、いろ。うごく、な」
ハクはくうん、と鳴いた。わかってるのか、わかってないのか。くぼみの奥で丸くなって、じっと俺を見ている。
……頼むから、出てくるなよ?
岩の匂いをまとって、狼の縄張りへ向かった。
〈MP:24→23〉
前の頭の縄張りは、もうすっかり隣の群れの匂いに塗り替えられていた。骨の広場にも、巣穴の入口にも、見回り道の岩の角にも、苦くて焦げた匂いがべったり残されている。
〈MP:23→22〉
巣穴の近くで、熱感知が灯りを拾った。
いた! 骨の広場に九つの灯りがある。何かを喰っている最中らしく、輪になって何かを囲んでいる。
一番大きな灯りが、輪の真ん中にいた。
反響感知をちっと小さく飛ばすと、形が返ってくる。でかい。前の頭と同じくらいか、それより少し大きい。肩の盛り上がりがすごい。
そして、頭の形が左右で違った。右の耳はぴんと立っているのに、左の耳があるはずの場所には根元からごっそり抉れた跡しかない。
片耳だ。
〈MP:22→21〉
片耳の群れは、静かだった。
前の頭の群れは喰うときも少し騒がしかった。若いのがじゃれあったり、順番を争って唸りあったり。
こいつらは誰も鳴かないし、誰もじゃれない。片耳が肉を喰い終わるまで、全員がじっと伏せて待っている。
片耳が顔を上げた。
それが合図だったらしく、ほかの連中が一斉に肉に群がった。
順番も何もない。押しのけあって、奪いあって、喰う。
その輪から、一頭だけ外れているやつがいた。
年寄りの雌だ。痩せていて、熱感知で見ても灯りが弱い。何度か輪に入ろうとして、そのたびに若いのに押し出されている。
げほっ、げほっ、と体を折り曲げて、苦しそうに咳をしている。病気か?
片耳が、その雌のほうへ歩いていった。
雌は片耳が近づいてくるのに気づいて、耳を伏せた。尻尾を股のあいだに挟んで、地面に伏せる。服従の姿勢だ。
片耳は、雌の前で立ち止まった。
咳をしている口元と、痩せた脇腹の匂いを嗅いで――がぶり、と。
雌の首筋に、牙を立てた。
――っ!
雌は抵抗しなかった。最初からわかっていたように。
片耳は、そのまま雌を喰いはじめた。
ほかの連中はちらりとそっちを見ただけで、すぐに自分の肉に戻った。誰も止めない。誰も鳴かない。
当たり前のことみたいに。
〈MP:21→20〉
岩の陰で、俺は動けなかった。
――……ぐるる。
底のほうで、ガロが唸った。さっきより、ずっとはっきりと。
ああ、わかるよ。
お前は最後尾を置いていった。待たなかった。振り返らなかった。
でも、喰いはしなかった。
こいつは喰うんだ。弱った仲間を、自分で。
雀荘にも、ああいう店があった。
源さんの店じゃない。駅の向こうの、レートの高い店だ。負けが込んだ客には、店長がわざと高い卓を勧める。払えなくなったら、借金させてでも打たせる。客が潰れたら、また次の客を探す。
源さんはその店の話になると、いつも苦い顔をした。
「怖がらせて卓を回す店は、長くはもたねえ。客がいなくなるか、誰かに刺されるかだ」
刺される、か。……なんで今、そんなこと思い出すんだろうな?
片耳が、雌を喰い終わった。
口のまわりを舐めて顔を上げ、鼻をひくつかせる。
風の匂いを嗅いでいる。何かを探すように、ゆっくりと首を巡らせる。
〈MP:20→19〉
岩の匂いを、もう少し濃くした。
片耳の首が止まった。俺のいるほうじゃなく、もっと遠く、岩場の向こうの湖のほうで。
湖の岸の、岩のくぼみがある方角。
片耳の鼻がそっちを向いたまま、動かなくなった。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:14/15
HP:146/146
MP:19/25
攻撃:24
防御:17
敏捷:18
魔力:17
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv4、硬殻Lv4、熱感知Lv2、震覚Lv2、水化Lv3、水弾Lv3、匂い写しLv5、吸血Lv2、反響感知Lv2、噛砕Lv3、威圧Lv1
……嘘だろ? くぼみのまわりには、水の匂いをちゃんと撒いたはずだ。
でも、片耳の鼻は、前の頭よりいい。
前の頭の群れの子どもの匂いを、あいつは知ってる。巣穴を襲った晩に、嗅いでいるんだから。
片耳が、ゆっくりと立ち上がった。




