第二十六話
子狼はよく寝た。湖の岸の岩のくぼみで、乾いた砂の上に丸くなって、腹を上下させながら、すうすうと寝息をたてている。
起きると、きゅう、と鳴く。たぶん腹が減ったって意味だ。
魚を獲ってきて溶かしかけの身を鼻先に置くと夢中で舐めて、舐め終わるとまた寝る。その繰り返しだった。
……子どもってのは、こんなに寝るもんなのか?
寝る子は育つって、前の世界で誰かが言っていた気がする。誰だったかは思い出せない。
三日目に、後ろ脚の怪我が気になりはじめた。
群れ同士の争いの晩に噛まれた傷で、血は止まっているのに、子狼はまだその脚を地面につけようとしない。三本の脚でひょこひょこ歩く姿は、最後尾と同じ歩き方だった。
なんとかしてやれないか、と考えた。
俺には吸血がある。相手の体力を吸い取る力だ。じゃあ、その逆はできないか? 俺の体力を、相手に流しこむ。
試しに、子狼の後ろ脚にそっと体の端を当ててみた。
吸血を、逆向きに。
〈吸血は、対象から奪う技能です〉
……知ってるよ! だから逆向きにって言ってんだろ!
〈――〉
黙りやがった。
もう一回、念じる。流しこめ。俺の熱を、この脚に。
何も起きなくて、子狼が不思議そうにこっちを見ているだけだ。だめか。
喰う力は奪うためにしかなくて、与えることはできないらしい。なんか、それが妙に悔しかった。
代わりに、傷口のまわりを舐めてやることにした。
舐めるといっても舌がないから、体の表面でそっと撫でるだけだ。溶解はぜったいに使わない。
子狼は最初はびくっとしたけど、すぐに力を抜いて、されるがままになった。頭の匂いがするからだろう。俺がまとっている、こいつの親の匂い。
……騙してるみたいで、気分はよくないけどな。
撫でていると、子狼が顔を上げて、俺の体に鼻先をくっつけてきた。
ふんふんと嗅いで、それからぺろっと舐めた。腐肉の味がするだろうに。
そういえば名前がない。「おい」とか「お前」とか、心の中で呼んでいるだけだ。
自分の名前をつけたときのことを思い出す。胸の穴を見て、空っぽだから「ヴォイド」。
こいつは何だろう。灰色の毛に、背中のあたりだけ白い斑がある。熱感知で見ると、体の熱がまだ弱々しくて、ほんのり白っぽい灯りに見える。
白、か。雀荘の白い牌を思い出した。何も描かれていない、まっさらな牌で、三枚そろえば役になるけど、一枚だけならただの白い四角だ。まだ何者でもなくて、これから何にでもなれる。
「――ハク」
声はもちろん出なかったけど、呼んでみたくなった。
声を出す方法を考えた。
口も喉もない。でも音なら出せる。反響感知で、ちっ、と体の表面を震わせて音を出している。あれをもっと細かく、もっと長く震わせたら、声みたいにならないか?
やってみた。
体の表面の一部を、細かく、細かく震わせる。
「…………ぶ」
ぶ?
もう一回。今度は震わせ方を変えて、空気を押し出すように。
「ば……ぶ……」
赤ん坊かよ!
子狼――ハクが耳をぴんと立ててこっちを見た。首をかしげている。
〈MP:25→24〉
震わせ続けるのにも、ちょっとずつMPがいるらしい。
何度も何度も試した。
「ば」「ぶ」「ぼ」「は……」
は、が出た!
「はー……」
〈MP:24→22〉
ハクが、ぱたっと尻尾を振った。
調子に乗って、続ける。
「は……ぐ」
ぐ、になった。
「ハ……グ」
違う。ク、だ。く。
「ハ、グ」
だめだ。どうしてもグになる。
ハクはしばらく首をかしげていたけど、やがて、わふっ、と小さく鳴いて、俺の体に飛びついてきた。
……今のは、たぶん「遊べ」だな。
〈MP:22→20〉
〈反響感知の熟練度が上昇しました。反響感知Lv1→Lv2〉
おお、発声の練習で上がるのか、これ。
その夜、ハクに魚をやっていたときのことだ。
〈溶解を発動します。MP:20→19〉
――喰え。
声がした。
頭の奥。噛み砕かずに残しておいた、あの場所から。
俺は固まった。今までも喰ったやつの声は聞こえたけど、それは喰った瞬間だけで、しばらくすると静かに底へ沈んでいった。この声は違った。
喰ってから何日も経っているのに、今、はっきり聞こえた。
――喰え。
二回目だ。低くて太くて短い、群れの頭の声。
「……誰を、だよ」
声は出ない。心の中で問い返す。
目の前には魚を夢中で舐めているハクがいる。小さくて、温かくて、無防備で。
――喰え。
まさか、こいつを喰えって言ってんのか? お前の子どもだぞ? ぞっとした。
喰った者の声に飲まれる。そういう話を、どこかで聞いた気がする。喰えば喰うほど、喰ったやつの声が溜まって、いつか自分が自分じゃなくなる。
俺の中で、群れの頭が、俺を動かそうとしてるのか?
――……喰え。
三回目の声は少しだけ違って、俺じゃなくハクに向かっていた。
ハクが魚を舐め終わって、もっと欲しそうに鼻を鳴らした、その瞬間に。
……ああ、そっちか。喰え、もっと喰え、大きくなれ。親が子どもに言う「喰え」だった。
「……紛らわしいんだよ、お前」
――。
返事はなかった。でも底のほうで、何かがふっと静かになった気がした。
それから、もう一匹魚を獲ってきた。溶かしかけの身にするのにも、溶解を少しだけ使う。
〈溶解を発動します。MP:19→18〉
ハクにやった。
ハクは二匹目もぺろりと平らげて、満足そうに俺の体にもたれて寝てしまった。
腹が、ぽっこり膨れている。
俺はその寝息を聞きながら、ぼんやり思い出していた。
湯気の立つ器を、二人ですすった狭い部屋。
――ちゃん、また朝帰り?
誰かの笑っている声だ。
――カップ麺、二つ作っといたよ。三分たったら起こしてね。
名前のところだけざらざらしたノイズがかかって聞こえないし、顔も見えない。
でも、その声を聞くと、胸の穴の縁が少しだけ温かくなる。
……誰なんだよ、お前は。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:14/15
HP:146/146
MP:18/25
攻撃:24
防御:17
敏捷:18
魔力:17
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv4、硬殻Lv4、熱感知Lv2、震覚Lv2、水化Lv3、水弾Lv3、匂い写しLv5、吸血Lv2、反響感知Lv2、噛砕Lv3、威圧Lv1
寝ているハクを起こさないように、もう一度だけ、こっそり練習した。
「ハ……ク」
出た!
今、クって言えた! 言えたよな!?
ハクはぴくりとも起きなかった。
……聞いてろよ、そこは。




